
株式会社毎日オークション「岩田家旧蔵特別コレクション」オークションカタログ(図録)
骨董エッセイは自分が持っている美術品を紹介しながらあれこれ書くのが不文律だが、今回は例外でモノはなし。今年(二〇二六年)二月十九日から二十一日まで東京江東区の有明TOC有明ウエストタワー内にある毎日オークションで開催された「岩田家旧蔵特別コレクション」に行って来た。その図録とオークションの様子の紹介である。
骨董売買は街のお店で行われるだけではない。骨董商の団体である東京美術倶楽部や大阪美術倶楽部などでは定期的に交換会が開催されている。骨董商によって自分の店(顧客)好みの筋はある。あまり店向きではない品物や価値がわからないモノを仕入れた時に交換会で売り、好みのモノを仕入れたりするのである。欧米も似たようなものだが、美術品に超高額な落札価格がついて一般社会でも大きなニュースになったりするサザビーズやクリスティーズのオークションハウスの方が有名だろう。SBIアートオークショングループの毎日オークションは日本最大のオークションハウスである。
毎日オークションはオークションに出品し競りに参加するには会員になる必要がある。ただ会員にならなくても気軽に参加できるオークションもある。が、二、三回覗いてみただけですぐに足が遠ざかってしまった。まあハッキリ言えば美術品蒐集はお金持ちの道楽である。潤沢な資金がなければマトモな美術品は買えない。業者と素人が入り乱れて競り、ピリッとしたモノには高値が付くオークションはわたくしのような落ち穂拾い的骨董好きには向いていないのですね。じゃあなぜ今回横浜のド田舎からわざわざ有明まで出かけていったのかというと尋常ではない古美術品が出品されていたからである。
今回のオークションには岩田宗次郎・多可夫妻が蒐集した三〇六点の美術品が出品された。岩田宗次郎さんは明治維新後に名古屋で財を成した惣三郎さんの次男。図録の人物紹介には「大日本紡績株式会社(現ユニチカ株式会社の前身)会長、岩田商事株式会社専務取締役、尾州銀行取締役、甲子興業・長崎紡織ほか多数企業の取締役など要職を歴任し、教育事業をはじめとする真宗大谷派の各種社会事業に貢献されました。こうした企業経営、社会事業の傍らで、宗次郎氏は多可夫人と共に茶の湯と古典の造詣を次第に深めてゆき、高い見識のもとに蒐集された美術品の数々には通底する気韻が感じられます」とある。御三家の一つである紀州徳川家のお膝元名古屋は昔から茶の湯が盛んである。

岩田宗次郎・多可夫妻
株式会社毎日オークション「岩田家旧蔵特別コレクション」オークションカタログ(図録)より
宗次郎さんは明治二十年(一八八七年)生まれ昭和二十八年(五三年)没、享年六十六歲。多可夫人は明治三十年(一八九七年)生まれ昭和三十四年(一九五九年)没、享年六十二歲。多可夫人がお亡くなりになってから六十七年後にオークションが開催されたことになる。
一般論だがこれはよくあることだ。蒐集家が亡くなってすぐにコレクションが売りに出されなければ市場に出るまで五十年以上かかるのはぜんぜん珍しくない。富裕層は特にそうである。蒐集家だった祖父や父親の記憶が薄れない間は動かず、孫やひ孫の代になって骨董に興味がないとか経済状況が変わったなどの理由で売られることが多い。骨董と同様、骨董市場もえらく気が長いのである。あ、繰り返せばこれはあくまで一般論で岩田家のご事情はまったく存じ上げません。
ただ興味がないなら骨董などとっとと売り払えばいいのである。茶道の古い茶碗は興味のない人にはたいてい薄汚れた陶器である。墨書も同様で流麗だなと感じても古い紙の繊維の上の炭素の染みに過ぎぬ。お金の使い方は人それぞれ。ブランド物でもグルメでも旅行でもお家の改装費用でも好きなことに使えばいい。また骨董好きにとってもモノが市場に出るのは大変ありがたい。高価ならもちろんのこと、気に入ってお金を出して買ったモノを骨董好きは大切にしますしね。
今回の出品物の目玉は三点。骨董は物言わないので正確な制作年代はわからないが伝来に従って古い順から紹介します。


重要美術品 大名物 茜屋柿茶入
H6.4×W8.8cm 挽家に隋流斎書付 不及斎箱 仕覆3点、挽家、添盆付 重要美術品認定通知書
「香雪齊蔵品展観」(大阪美術倶楽部 1934年)目録No.92に掲載
文献:高橋義雄編「大正名器鑑 第二編」(大正名器鑑編纂所刊 1922年)P.163に掲載 「漢作 大名物 大阪 藤田徳次郎氏蔵」と有 「重要美術品等認定物件目録 第壹輯」(文部省宗教局刊 1936年)P.80に文字情報掲載
遠藤敏夫編「茶入茶碗名器百圖 上編」(寶雲舎刊 1939年)P.1に掲載
同書
茶道の大成者は千利休だがその歴史は銀閣寺を建てた室町時代中期の第八代将軍・足利義政まで溯る。茶の湯の基礎を作ったのは義政公である。義政公が蒐集した茶道具は将軍お付きの同朋衆、能阿弥・相阿弥によって『君台観左右帳記』にまとめられた。作者や作品名など具体的記載があるのは最も珍重されていた唐物(中国製)の絵画だけだが抹茶碗もランク付けされている。最高位は曜変天目である。これは日本に三点しか現存していないので(ということは世界で三点のみ)義政公旧蔵だと考えてよい。義政公の茶道具は東山御物とも呼ばれる。織田信長や豊臣秀吉はしばしば茶道具の名物狩り(強制買い上げ)を行ったがそれは室町将軍の正統後継者を名乗るためだった。
江戸後期になると大茶人として知られた松江藩主(現・島根県)・松平不昧公が『雲州名物帳』などで茶道具を大名物、名物、中興名物に分類・大系化した。大名物はおおむね義政公室町時代の茶道具、名物は利休桃山時代、中興名物は江戸初期の小堀遠州が蒐集した御道具類などを指す。
近代に入ると実業家で大茶人の高橋義雄(雅号・箒庵)が実地調査して『大正名器鑑』をまとめた(大正十年[一九二一年]~昭和二年[二七年]刊)。大名物や名物など八七五点の名品茶道具の写真と所有者の名前などが掲載されている。それまで絵や文字で細々と知られていた名品が初めて細部までリアルにわかる写真に撮られたのである。その後太平洋戦争などの激動で所有者が変わったり失われたりしたため『大正名器鑑』の情報は現代でも非常に重要だ。
「茜屋柿茶入」は義政公室町時代の大名物の一つである。柿の形に似ていて光の加減で微かに茜色に光るのでこの銘がある。わかっている最初の所有者は利休のお師匠さんである武野紹鴎。紹鴎旧蔵品はほかにも知られているが渋好みだ。紹鴎時代、つまり室町時代には国産茶道具を作る技術がなかったので中国製である。南宋から元時代にかけて天目茶碗などを焼いた窯の作ではなかろうか。『大正名器鑑』には「大阪 藤田徳次郎氏蔵」とあるがその後何人かの手を経て宗次郎さんの元に渡った。
手の平に乗るくらい小さいが三重箱に収められている。それぞれの箱に旧蔵者の墨書(真贋の極め)や貼札がある。箱も重要なので次の所有者が痛まないよう新たな収納箱を作るうちに三重箱になったのである。茶入を入れる漆塗りの挽家には千家第五代家元・隋流斎の朱書がある。布製の仕覆も三点付いている。添盆は中国は後漢時代の作。えらく古い。これだけでも名品だ。茶道具の世界では御道具に仕覆などの付属品をあつらえることを御支度と言う。美術館では物だけが展示されることが多いが伝来の歴史を知りたいなら箱などの御支度も重要になる。オークションでは伝来の付属品一式も見ることができた。


大名物 井戸茶碗 銘 常磐
H7.8×W16.2cm ニュウ、直し 箱付
文献:高橋義雄編「大正名器鑑 第七編」(大正名器鑑編纂所刊 1926年)P.35に掲載
「坂本井戸 名物手 大名物 一名 常磐井戸 男爵鴻池善右衛門氏蔵」と有
二点目の名品は「大名物 井戸茶碗 銘 常磐」。江戸中期には京都の糸割符商人・坂本周斎が所蔵していたことが知られているので「坂本井戸」と呼ばれる。器体が少し青みを帯びておりそれを長寿の象徴である常緑の松になぞらえて「常磐」という銘がついた。二重箱で内箱には「井戸」「常磐」とあり裏に「閑事庵(周斎の雅号)」の墨書がある。古い箱なのにピカピカだ。幕末から戦前にかけては豪商・鴻池家所蔵でそこから宗次郎さんの元に渡った。
井戸茶碗は李朝時代初期の朝鮮からの輸入品である。カイラギ(梅花皮)と呼ばれる釉薬の塊が高台などにあるのが最大の特徴。大名物、つまり室町時代に朝鮮から輸入されて伝世した井戸茶碗は十数点ほどしかない。ただ茶道具の世界はいい加減である。井戸茶碗が憧れの名品になると大井戸(名物井戸)、小井戸(古井戸)、青井戸、井戸脇など様々な分類が生まれた。大名物の井戸茶碗ほどではないがそれらしい出来の朝鮮製茶碗を次々に井戸に組み入れていったのである。そのためいわゆる井戸茶碗は七十点以上存在する。ただし大名物井戸が市場に出ることはめったにない。


初代 長次郎 重要美術品 黒茶碗 銘 閑居
H8.1×W11cm 高台内に利休在判 ニュウ、直し 仙叟箱 箱蓋表の字は千利休 一燈極札
藤村庸軒所持
「鴻池男爵家蔵品展観」(大阪美術倶楽部 1940年)目録No.91に掲載
文献:金森得水著「本朝陶器攷證 五」(林芳兵衛刊 1894年)に掲載
文部省教化局編「重要美術品等認定物件目録」(内閣印刷局刊 1943年)P.410に文字情報掲載
三点目は「初代 長次郎作 銘 閑居」。茶の湯の大成者・千利休の茶は佗茶(草庵の茶)と呼ばれる。粗末で狭い入り口(躙り口)のある、最大でも四畳半くらいの茶室で茶道(お茶の先生で利休のような禅宗の僧形の亭主)が上座に座り客にお茶を饗するのである。利休は織豊政権の実力者だったが無位の僧侶なのでこの世の利害には関わらないという建前があった。客の武士たちは刀を預け丸腰でなければ茶室に入れない。草庵が主流だったのは織田信長と豊臣秀吉の戦国時代で茶室は密談の場でもあった。豊臣政権が安定すると広間の茶と呼ばれる六畳から八畳くらいの広くスッキリとした書院の茶が主流になってゆく。密談の必要性が薄れたのである。
ただそんな実用性とは別に草庵の茶は利休の美意識の表れでもあった。茶室に高価な建材は使わず御道具類も質素だった。壊れやすいモノ、儚いモノに最高の美と強さを認めるのが利休の茶の湯でありそれを最もよく表した御道具が楽茶碗である。利休時代も中国や朝鮮製の茶碗が珍重されていた。が、利休は聚楽第の瓦職人(陶工)だった朝鮮人の長次郎を指導して茶碗を焼かせた。現代まで続く楽家の始まりであり国産抹茶碗の最初である。
よく知られているように利休は秀吉から自刃(切腹)を命じられて果てた。黄金の茶室を作った派手好みの秀吉と美意識が衝突したからだけではない。朝鮮出兵のために秀吉は茶人で豪商の博多の神屋宗湛に急接近していた。利休は政治的には堺衆の代表だった。堺と博多の豪商の対立も背景にあった。
利休自刃の公的罪状は大徳寺山門楼上に自身の木像を安置したこと(秀吉が山門を潜る際に利休像の下を通ることになり不敬である)、「イマヤキ茶ワン」(新物の抹茶碗)を不当な高値で売りつけ私腹を肥やしたという二点である。なんの変哲もない楽茶碗に高値を付けて大名茶人らに売ったこと自体利休の攻撃的美意識の表れだが、イマヤキ茶ワンに長次郎作が含まれていたのは想像に難くない。
ただ井戸茶碗と同様、長次郎作は時代が下るにつれて珍重されるようになりどんどんその数が増えていった。茶道具アルアルである。真作は恐らく数十点だが疑問作を含めると三桁に乗る。これは間違いなく真作だろうという茶碗に長次郎七種がある。長次郎七種は内七種と外七種の十四碗だが今回出品された「閑居」は外七種の内の一作である。箱蓋表の字は利休で高台内にも利休の朱漆在判(ケラ判)があるので尋常ではない。茶道具をいつから箱に入れて保存する習慣が生まれたのかは判然としないが利休時代にはすでに行われていたことがわかる。利休墨書の箱もピカピカだ。
「閑居」は千家三代で中興の祖である宗旦からその直弟子の藤村庸軒に譲られた。戦前には井戸茶碗「常磐」と同様鴻池家所蔵だったがその後行方がわからなくなっていた。それが約九十年ぶりに市場に現れたのである。宗次郎さんは別に隠していたわけではないだろうが「私が持ってますよ-」と公表するといろいろ面倒ではある。
美術館ではガラス越しにモノを見なければならない。しかしオークションでは間近で見られる。それだけでなく下見会ですべての出品物に触ることができる。売り物ですからね。目玉の「茜屋柿茶入」「井戸茶碗 常磐」「長次郎作 閑居」の三点は順番待ちだったが椅子に座って手に取ってみた。実際に大名物や名物茶道具に触れられる機会などめったにない。ほとんど一生に一度のチャンスである。
「茜屋柿茶入」の印象は眺めていた通り。まあまあ重くて器体が厚い。釉薬の乗りもいい。「井戸茶碗 常磐」は手に持つと大きく感じられる。改めて室町から桃山時代にかけての抹茶碗は大ぶりなんだなと思った。現代茶道では規格外かもしれない。想像していたより軽い。そして釉薬が厚い。かなり使い込んでいるはずだがカイラギなどの釉薬は艶やかだ。高橋箒庵が『大正名器鑑』大名物の最初に「常磐」を載せただけのことはある。使い勝手がよくお茶が映えるだろう。
「長次郎作 閑居」は手の中にすっぽり収まるが大きさの割には重く感じた。枯淡と言えば聞こえはいいが全体的にカセていて特に見込みはガサガサ。粘土と釉薬の相性が悪く使っているうちに釉薬が剥げてしまったのじゃなかろうか。しかしそれが逆に利休―長次郎の国産抹茶碗(楽茶碗)草創期の試行錯誤を表している。この茶碗は長次郎が作り利休や宗旦、庸軒が使ったのだと思うと小林秀雄的に遠い目になってしまった。小林さん、優れたモノを手にすると観念の方に心が浮遊していってモノが見えなくなってしまうようなところがあった。ロマンチックが止まらないのだ。骨董好きはあまりお手本にしない方がいいお方ですな。
骨董の世界では本物を手にする経験は非常に重要である。もちろん最近は鮮明なカラー写真図録がありネットでも情報を入手できる。これは僕の個人的経験だが二次元の写真と文字情報から真贋に関する情報は八、九十パーセントは取れる。ただ残り十から二十パーセントの情報は本物を数多く手にしガラス越しではなく間近で見て得るしかない。焼物でいうと初期の奥高麗は別だが唐津の真贋判断は比較的簡単。伊万里も迷うことは稀だ。しかし志野・織部になるとハードルが上がる。出回っている真作の数が少ないのだ。まあ一点くらい井戸や長次郎を手にしたからといって真贋がわかるようになるわけではないが目と手は意外にモノをよく記憶しているものである。
今回のように名品が出品されたオークションでは図録も重要になる。絵画でも陶磁器類でも古来名品と呼ばれて来たモノはだいたいの伝来経路がわかっている。手から手へ大切に守り続けられた伝世品はいつの時代も貴重だ。必ず売買記録などが残る。ある日突然名品が現れることは絶対にない。
「第052回 奥州平泉中尊寺金色堂壁之金箔」で書いたが九州国立博物館が平成十七年(二〇〇五年)十月の開館に合わせて「麻布山水図」を購入した。奈良時代の作で正倉院流出御物だと言われるが伝来経路は「正倉院?→柏木貨一郎→柏木家→益田孝→益田家→個人(骨董商)」で、正倉院から出て柏木貨一郎が入手するまでの経路がわからない。柏木さん、ちょっと怪しい明治の骨董フィクサーだった(No.084 柏木貨一郎旧蔵『法隆寺金堂天蓋瓔珞玉』を読んでみてください)。古い時代に「麻布山水図」が流出していれば「正倉院?→柏木貨一郎」の間に何人もの所有者がいたはずである。そのため第171回国会の決算行政監視委員会第二分科会で「麻布山水図」は盗品ではないのかという質疑応答が行われた。
今回のオークションでどなたが品物を落札されたのかは個人情報なので明かされない。しかし図録を見れば二〇二六年に岩田家を離れて売られた(所有者が変わった)ことはわかる。落札価格も公開されている。時間が経つとそんな情報も重要になる。
毎日オークションさんはオークションを開催するたびに図録を会員に頒布しておられる。東京美術倶楽部主催の東美特別展などでも図録が作られる。明治維新以降だが写真製版を含む印刷技術が上がると大きなオークション(売立)のたびに図録(売立目録)が作られた。会員しか閲覧できないが東京美術倶楽部の資料室には明治維新以降の売立目録がほぼ揃っている。名品やそれに準ずる貴重な美術品は売立目録を調べて伝来を知ることができる。美術研究では科学的アプローチや文献調査など複数の研究手法がある。図録調査は基本中の基本だ。
ちなみに現在国会図書館が急ピッチで所蔵本のデジタル化を進めているように古い売立目録のデジタル化も進んでいる。ちょっと前までは時間をかけて紙の本を調べなければならなかった。またデジタル化しても絵画は文字タグを付けなければ検索が難しかった。しかしAIが検索を容易にしてくれる。たとえば「室町時代の細身の龍の屏風で琳派のような波が下に描かれている作品を教えて」と入力するとそれらしい作品画像をAIが即座に複数リストアップして表示してくれる。学問は新しいフェーズに入る。基礎研究時間が大幅に短縮され新たな研究のための時間的余裕が生まれる。学問だけでなくAIはわたしたちの生活を劇的に変えるのだ。早くもっと使い倒してみたい。楽しみですね。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2026 / 03 / 10 下編に続く)
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■


