「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
それはまるで旧式オーブントースターのような
彼はマルゲリータピザが好きだった。
愛している、と言ってもよかった。
「マルゲリータはな、イタリア国旗の象徴なんだよ。トマトの赤、モッツァレラチーズの白、バジルの緑。赤と白と緑でイタリア国旗だ」
念のために言っておくと、彼はイタリア人ではなく日本人だ。
マルゲリータがイタリア国旗を象徴しているからといって、彼に何の関係があるのだろうか。
「そういう即物的な考えはよくないぜ」
彼は私をたしなめた。
彼と私は恋人という間柄ではなくて、かといってただのひとりの友人とするには長い時間を共に過ごしすぎた。
お互いの誕生日にはプレゼントと電子的ではない手紙を贈りあう仲だった。
1年にその2回、つまりお互いの誕生日の日にしか連絡を取らない時期もあったけど、また次の年の誕生日にはプレゼントといくらかの文面を贈るのだろうなということは、なんとなく想像できた。
「良いピザを焼くには、良い焼き窯が必要なんだ。ガスオーブンでなんか焼いちゃダメだ」
でも私は、彼がピザを焼くときは家庭用の電気式オーブントースターを使っていることを知っている。
それを指摘すると。
「ウチの自慢の焼き窯だよ」
彼は答えた。
私たちは恋人という関係を試そうとしたこともあった。
けれど、いざ実践すると長続きせずに3ヶ月でその関係は終わった。原因は私の浮気だ。
当時の彼は私を責めなかった。
今になって「あのとき、俺、シャワー浴びながらこっそり泣いたんだぜ」と、昔話を懐かしむかのように告げられたときはさすがに申し訳ない気持ちもあったけど、そういうこともあるんだから仕方ない。
愛という営みについて激論を交わすほど私たちは若くなかった。
そして今はお互いに違うパートナーを見つけて、300キロ離れた町で別々に暮らしている。
彼は電話口で「まいったよ」と、言った。
「俺の周りで3人も子どもが産まれたんだ。ひとりは中学時代の友人、ひとりは職場の上司だよ」
「もうひとりは?」
「俺の子どもだ」
まいるだろ? と、受話器の向こうから彼特有の甲高い笑い声が響いた。
そう、と私はうなずいた。
「まいるね、それは」
「だろ?」
私はすこし考えてから、彼に「実はね」と話を切り出した。
ただの友人なら、適当に嘘をついてその電話を切ったのかもしれないけど、それをするには私たちは長い時間を過ごしすぎた。
私は言った。
「母が亡くなったの」
病院から連絡が来たのは今朝だった。
あー、というため息が少し遠くのほうで聴こえてきた。彼が頭を抱えて受話器から口を遠ざけながらそうしている仕草を想像すると、すこし可笑しくなった。さっきまでの甲高い笑い声は消えていた。
「同情するよ」
そう言ったのは私のほうだった。
自分の子どもの誕生と、旧知の人間の母親の死が同じ日に舞い込んできた彼の身に、そしてそうとは知らずに私と話すことで生まれた気まずい空気をおそらく悔やんでいるであろう彼自身に、心からそう告げた。
申し訳ない気持ちはあった。
でも仕方ない。
そういうことだって起きることを、もう若くない私たちは知っていた。
おわり
メキシコで釣りをする老人について
メキシコの田舎町。
海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。
それを見たアメリカ人旅行者は、「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」と尋ねた。
すると漁師は「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた。
旅行者が「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」と言うと。
漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」と旅行者が聞くと、漁師は答えた。
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」と、旅行者はにんまりと笑う。
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
旅行者は答えた。
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。どうだい。すばらしいだろう」
(ネット上に転がっている小話より)
何年か前は今より労働の時間をたくさん割いていて、たしかにある程度の収入はあったけど、そのぶん時間が経つのが早かった。
今は自分自身の時間を最優先にしてる。
収入は減ったのにゆっくり快適な生活を暮らすことができている。
メキシコで釣りをする老人についての小話を思い出す。
人生に、なんていうと大げさだけど、なにか自分ではどうしようもなさそうな壁にぶつかると、僕はメキシコで釣りをする老人についての小話を思い出すようにしている。
それはなんていうか、ちょっとしたコツ、みたいなものだ。
パンチを真っ直ぐ打つためには、パンチを真っ直ぐ打とうとしてはいけない。パンチを打つ手と同じ側の足のつま先を、打つ瞬間に相手のいる方向へ真っ直ぐ向けると、自然とパンチを真っ直ぐ打つことができる。ストレートパンチのコツだ。
それと同じで、僕は人生の中でストレートパンチを打つべきときに、メキシコで釣りをする老人についての小話を思い出すようにしている。
残念なことがひとつ、ある。
僕はメキシコに行ったこともなければ、釣りをしたこともない。
だからメキシコで釣りをする老人を想像するのは、けっこう大変だったりする。
誰かにコツを教えてもらう必要があるかもしれない。
おわり
イマジン・オール・ザ・イグアナ
ほんとはイグアナを飼う文章を書きたかった。
でも僕は残念なことに、イグアナについてほとんど何も知らないと言ってもよかった。とりあえずユーチューブでグリーンイグアナと検索してみると、グリーンイグアナが誰かしらの部屋の中を自由気ままに歩く映像がたくさん出てきた。
「やめたほうがいいよ」
目の前に座る女の子が、タバコを吸いながら僕に言った。
「どうして」
「自分が気に入った女の子に対して、すぐに「かわいいね」なんて声をかけるあんたに、イグアナを飼う素質があるなんて思えない」
あんたにはそもそも責任感が欠如しているんだから、と彼女は続けた。
「あれ、君に「かわいいね」なんて言ったことあったっけ」
僕が自分の記憶を探っていると、彼女は僕に聞こえるように、見えるように大げさなため息をついてみせた。
「あんたは少なくとも、アタシには「かわいいね」って言うべきなのよ」
礼儀として、ね。
礼儀。
その問題に関しては確かに多くの難点を僕が抱えていることを、僕は知っていた。
「そもそもなんでイグアナを飼いたいと思ったの」と、彼女が訊いてきた。僕たちは大手チェーン店のコーヒーショップの喫煙席で、友人主催の音楽ライブが開催されるのをそこで待っていた。今日はジョン・レノンの命日だったけど、それと今日のライブとはたぶん何の関係もないだろう。だから僕は別に「イマジン」の歌詞を覚えようともしなかった。
想像してごらん。イグアナのいる生活を。
もし現代にジョン・レノンが生きていて、ユーチューブを愛していたのなら、彼もそんな曲を書いたかもしれない。
話が逸れた。そう、なぜイグアナを飼いたいか、だ。
彼女は黙ったまま、2本目のタバコに火を点けた。彼女の良いところのひとつだ。彼女は自分が質問をすると、相手に考える時間をたっぷりと与えてくれた。そんな人はこれまで僕の周りにはあまりいなかった。大抵の女の子は、男の子も、自分のした質問の答えを待ちきれずに次の話題に移ってしまう。だから僕はあまり満足に質問に答えられたことがない。
「脱皮をするんだ」
「イグアナが?」
「そう」
まあ爬虫類だから、脱皮のひとつもするだろうねと、彼女は言った。僕は生物学に詳しいわけじゃないからすべての爬虫類が脱皮をするのか、脱皮という行為が果たして爬虫類の特権なのかは知らなかったけど、イグアナが脱皮をするということは知っていた。
「脱皮をすると、かわいいの?」
「うーん」
彼女は待った。待つことのできる女の子や男の子のことが、僕は好きだ。2本目のタバコは早くも短くなっていた。僕はタバコを吸ったことがないからわからないけど、少しペースが早いように思えた。彼女は独身で出産はまだ済ませていなかったから、そんなタバコを吸うのは良くないよと言おうかとも思ったけど、僕にそんな言葉を言う権利があるとは思えなかった。彼女には、吸いたいだけのタバコを吸う権利があるとも思った。
「ときどき脱皮の苦手なイグアナもいたりするらしいんだ」
「うん」
「僕はそのイグアナの脱皮を、手伝ってあげたいんだ」
「うん」
「すべてのイグアナがかわいいかどうかはわからないけど、脱皮をするイグアナはかわいいと僕は思ってる。だから、脱皮のできないイグアナをすごく不憫に思ってしまうし、なんていうか、不思議なんだけど、脱皮のできないイグアナは僕と似ている気がするんだ。そんなイグアナと、一緒に生活をしてみたい」
ふぅ、と彼女は白い煙を吐いた。換気扇から流れてくる風に乗って、それはど こかへと消えてしまった。
「もしも」
「もしも、あんたの買うイグアナが脱皮のうまいイグアナだったら、どうするの」
それでもそのイグアナを愛することができるの?と、彼女は言った。
「わからない、けど」
僕はすべての女の子に「かわいいね」と声をかけるわけじゃないけど、「かわいいね」と声をかけない好きな女の子だって、僕にはいるんだ。
「そうなの?」
彼女が驚いた目で言った。
そうだよ。
僕は彼女を見た。
彼女が脱皮がうまいかどうかなんて、僕にはどうでもよかった。
想像してごらん、彼女のいる生活を。
ほんとはイグアナを飼う文章を書きたかったけど、少なくとも想像することはした。ジョン・レノンだって許してくれるかもしれない。
おわり
(第44回 了)
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■