母親の様子がおかしい。これがいわゆる認知症というやつなのか。母親だけじゃない、父親も年老いた。若い頃のキツイ物言いがさらに先鋭化している。崩れそうな積木のような危うさ。それを支えるのは還暦近いオレしかいない・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家による苦しくも切ない介護小説。
by 金魚屋編集部
三十七.
ボーン ボーン ボーンと正確に一拍ずつ間を刻んで、玄関正面の大きな掛時計が鐘を鳴らした。もう三時か。記憶が正しければ、零時過ぎに目を覚ましてからずっと眠れずにいる。ほぼ毎日だ。日中は眠くてどうにもならない。昨日もヘルパーを見送った後、ダイニングのイスに腰掛けて毎朝八時からの連続テレビドラマを観ていたかと思ったらそのままヨダレを垂らして眠っていた。
父親はと言えば、昼も夜もしずかに眠り続けている。あんぐり口を開けて眠っている。しずかすぎる。あれほど賑やかだった鼾も聞かれなくなった。呼吸が細くなったせいだ。寂まり返ったこの家にいると、すこぶる孤独に感じる。
そんな家にめったにない来客があった。
某政党の重鎮でかつて大臣を務めたこともあるKさんが、ハギノさんに一目会いたいのだがと、長野からわざわざ訪ってくれたのである。長野の地盤を継ぐまでは、同じM道路にいたという話は父親からだいぶ以前に聞いていた。たまたま湯河原へ用向きがある由で、この機会に是非ということだった。政界は二年前に勇退、この日はお供もなく単身電車で来られた。
鎌倉駅東口改札を出たところで、約束の午後二時よりすこし前に出迎えた。テレビで観たままの姿で、すぐにKさんとわかった。T銀行から送り込まれた父親より年齢は七つ下だが、同期入社で配属も同じ経理だったから浅からぬ付き合いだったんだよとタクシーの車中でKさん。「お父さんとそっくりなので一目でわかりましたよ」嬉しくも何ともない。ぼくは目下の状況を手短に説明した。「Kさんが今日来られるってことは幾度か伝えていますが、どこまで理解しているやら。せっかくいらして頂いたのに、Kさんと認識出来るかどうかも分かりませんよ」「ああ、かまわないよ。ほんとうにお世話になったんだ」血気盛んだった往時の二人のエピソードになって、話に花が咲いた。家に着くとお茶を出す間ももどかしく、手荷物だけソファーに置いてもらって部屋へ案内する。ベッドはすこし枕側を上げてある。
「オヤジ。いま来られたよ。ほらKさんだよ。おぼえてるか」
「ハギノさん、Kです。わかりますか」
眠っていた父親は呼びかけに反応し、うっすらと眼を開いた。
Kさんの顔を凝っと見つめている。
陽が昇るにつれ霧が晴れていくように、瞳孔がすこしずつ開き出すのが見えた。かつて糖尿病から白内障を患い、手術した経緯もあってか、寝たきりになって以来いつもは開くことのない右眼までが開きはじめる。Kさんとぼくの顔を代わる代わる見ると、あーっと叫ぼうとして口を開けたが声にならない。
「久しぶりだね。ああ、私のことをわかってくれているようですね。ハギノさん。お会いしたかったですよ」
掛け布団の下から右手を外に出してやった。Kさんがその手を握った。父は固く握り返した。
「親父のこんな顔は、この半年見たことがない」
「そうですか。良かった。お会いしても私のことはわからないかな、と思っていたが、わかってくれたね」
無言のままだったが、双眼に点った光が強まっていくのがはっきり見てとれた。いかにも力が漲ったという表情になる。
「ああ……いい顔をされているね」
そのことばが聞こえたのか、父はKさんを黙って見つめたままニコォーッ と笑みを浮かべた。それは誰もが自らの生涯でただ一度しか見せることのないような、会心の笑顔だった。Kさんはハンカチを取り出して涙を拭った。
会見はほんの一〇分から一五分ほどだったろうか。父の眼が再びゆっくりとおだやかに閉じはじめた。握り締めていた手がそっと緩んだ。
「元気になって下さい。またお会いしましょう」
タクシーを呼んで、門前で見送った。通りから左折して見えなくなるまで見送るぼくに、遠くタクシーの中から手を上げるKさんの姿が見えた。
*
このごろ面白いヘルパーが来るようになった。
新人らしい。といっても年齢は三十代後半というところか。髪の長い男性で、ヘルパーというよりアーティストかミュージシャンに見える。着替えや食事の介助をしながら、何やらしきりに話しかける。
「ハギノさん。初恋はいつですか」
「……」
「何て名前のコだかおぼえていますか」
相手の反応などおかまいなく質問しまくる。
「初キスの味はどうでしたか」
ぼくは思わずふき出した。
「写真がお好きなんですってね。息子さんから聞きましたよ」
「……」
「いいカメラ持ってるそうじゃないですか。見せて下さいよ」
「……」
「こんど富士山を撮りに行きましょうよ。元気になって」
するとうっすら目を開き、頷いて、
「ハイ、よろしくお願いします」
続いて意味不明なことばをンニャムニャ喋り出すではないか。感心するより、ほんとうはぼくが常日ごろから話しかけてこのひとの脳内ニューロンを刺激してやらなくてはいけないのを、ヘルパーが代わってやってくれたようなもので、怠慢を反省しろと言われたも同然だった。
その夜、いきなり掛け布団を払い除けベッドから勢いよくがばっと起き上がって、こりゃひょっとして降りて歩き出すかと思ったら、昔のパジャマ姿に戻ったそのズボンに手を掛け下そうとする。「大したもんだなあオヤジは」思わずそう口にすると、こちらを見てしきりに口をすぼめチューチュー言わせる。「何か呑むか」返事はないが、こんなときのために冷やしておいたOS―1ゼリーを持って来て口に含ませると、じぶんで持ってたちまち一本平らげた。粘るなオヤジ。まだまだギブアップするつもりはないんだな。右を向くと亡母の遺影がニコニコしている。楽しそうに見てんじゃねえよ。ぼくは遺影に毒づく。夜はまだ長い。
三十八.
咽せて痰が溜まりやすいのは、炎症に抗する力か、または嚥下する筋力か、あるいはその両方が弱まっているせいだろう。加湿器は二四時間つけっ放しにしてある。なかなか止まらないので、身体を横向きにして背中をさすってやる。自力では寝返りすら打てなくなった。咳は止まらない。やはり吸引器を使うしかないか。カテーテルを手に「さあ痰を取るよ。大きく口を開けて。あーん」素直に言うことを聞くようなら父親ではない。幸か不幸かその点は変わっていない。悲鳴を上げようと身体を捩ろうと表情ひとつ変えず、鼻からすいすいと管を入れるベテラン看護師のようにはいかないから、口から入れる。咳をして口を開けたところを狙ってそうっと、しかし決然と入れなくてはならない。おっかなびっくりだと不安にさせるだけで、身を預けてはもらえない。ただでさえぼくは信用されていないのだ。入れるとすぐコツコツと喉ちんこに当たるのを感じたら、傷つけないようしゅるると乗り越えその先の気道まで管を届かせる。そこまでは何とかできるようになった。真冬の夜の三時、倹約のためエアコンもストーブも使わない家の中は一〇度を切り、息が白く見えるほどだったが、ぼくはトレーナー一枚の恰好で汗びっしょりになった。毎晩そのくり返しだ。このころは食事の介助を嫌がるヘルパーも出てきた。咽せたのが原因で誤嚥性肺炎を招き、万一の事態になればたとえ責任を問われなくても、要らぬ風評につながりかねないからだ。こうしてぼくの出番が増えていった。それと正比例するように怨念も右肩上がりになったのだった。
寝返りも打てなくなると、毎日ワセリンを塗っていても尾骨の辺りやかかとに赤く褥瘡が出来て、見るからに痛々しい。左のかかとがとうとう出血してしまったので看護師を呼んで処置してもらい、クッション代わりに座ぶとんを丸めてアキレス腱の下へ入れ、足先を浮かせてやる。こうしたノウハウは在宅介護のヘルパーなら誰でも身に着けている。浮かせた両足先は、熟睡中を除けばどんなときも「ピク ピク ピク ピク」と脈拍よりゆるやかな、けれど正確なアンダンテ・モデラートのリズムで上下動している。以前からパーキンソン病症候群と診断されていた症状が、こんな状態になってもなお生きているらしい。
褥瘡が出来て痛がったり、痰が詰まって苦しそうにしていても、同情する気持ちには一向にならない。と言って、ざまあ見ろとも思わない。父親と思っていないからだろう。百パーセント父親と思って接していたらどうなるか。一週間とガマンできずに撲殺するだろう。この枯れ木のような身体からまだこれだけ出てくるのかとおどろく量の便を一日置きに排出する。それを始末し、汚れた衣類を浴室でオエオエ吐きながら幾度も幾度も手洗いし、とりわけ夜から朝にかけて何度となくカテーテルを喉の奥へ突っ込んで吸引を行うなんてマネは、コイツはただの患者だ、ぼくは医療スタッフ不足のため臨時公募で訪れたボランティアだと思いこまなくてはとうていムリである。
腐った澱の溜まったようなこの家に毎日閉じこもっていては気が変になりそうだから、クロスバイクにまたがって外の空気を吸いに出た。誰かさんはどうせ眠っているから置きっ放しである。この日は三崎港と三浦海岸を一回りして、マグロ丼を食って帰った。一昨日は国道一三四号線を西走して相模川と花水川を渡り、湘南平の坂をえっちらおっちら上ってはるか大島、東京スカイツリーまで眺望できる高麗山公園の三六〇度パノラマにしばし浸った後、平塚駅に近い老舗ラーメン屋の行列に交じった。
くどいようだが、あんたって存在を憎んでいるからって、生きることまで邪魔するつもりはないんだ。いまからだって食事の量を減らしたり薬を抜いたり、すこしずつ弱らせる手だってなくはないさ。でもそんなことはしねえ。あんたみたいなクソ野郎でも生きる権利くらいあるからな。親をクソ呼ばわりする子もまたクソ野郎、フンケイの交わりとはよく言ったものさ。もっとも〝糞繋の交わり〟、クソつながりってことだがな。それとも何かい、あんたにゃなにか存念でもあるってのかい。この前も言ったがな、まだやり残したことが、朽ちかけのあんたのどこかに残ってるせいで成仏できないってなら、かしこまって聞くよ。え何だって。――いやナニ、言っただろ。どこまでオレに従いてこれるかと。お前もともと出来の悪いヤツだったからな。性根を入れ直すには少々遅過ぎたなァ。なーるほど。いいだろう。だがな、手遅れだってぇならもうお互い無用ってわけだ。んならとっとと逝きやがれ。
日々くり返される罵り合いにうんざりしたのか。ほんとうに逝ってしまった。
二〇一九年二月一五日、願わくば花の下にて春死なんという西行の辞世のとおり、旧暦と新暦の違いこそあれ、自らの望みをかなえたことになる。あれから丸一年。幕切れは思いも寄らず、あっけなかった。
ぼくは、そのとき外出していた。新宿の某カルチャーセンターで、夜七時からNさんの講義を聴講する予定だったのである。Nさんは哲学の先生で、ぼくが敬愛して止まない数すくない人物である。もう十年以上欠かさずに通っていた。何が起きようとも悔やみっこなし。親不孝者は最後まで親不孝でなくてはならぬ。そう思いながらこの日もぼくは家を出た。当代きっての哲学ライブは、これからはじまろうとしていた。
そこへ携帯が鳴った。今宵担当してくれているヘルパーのCさんからだ。「お父さんが息をしていないんです」いまかい、よりによって。それが最初に思ったことだ。時計を見ると午後六時三四分。救急車を呼ぶと言うから、止めてくれ、ぼくが担当医へ連絡を取るからと伝えたがすでに遅かった。通話を切るやいなや間髪入れず消防ですがと来た。早過ぎる。オレに電話するより先に連絡したな。隊員はぼくの身元確認をしつこいほどしてから「これから緊急の延命措置を取るかどうかを、息子さんのあなたに判断してもらいたいんです」「措置とは、具体的に何をするんですか」薬で、と説明しはじめるのを遮って「やめて下さい。何もしなくてけっこうです。自然に逝かせてやってほしい。これは長男としての意思です」すぐ目の前をN先生が講師控室に入って行く姿が見えた。何でこうなるの。オレってそんなに行いが悪いか……悪いよな。ただし行いが、ではない。運が悪いという意味であるのは言うまでもない。
N先生の講義を断腸の思いでドタキャンし、新宿から鎌倉へ帰宅したのは二〇時半過ぎだった。煌々と明かりの点った玄関を開けると担当医・Y女史の勤めるクリニックの院長Kさん、看護師のTさん、ヘルパーのCさんと上司の巨漢Nさん、ケアマネの円地さんがお揃いでぼくを迎えた。父親はベッドへ横たえられ入れ歯をはめてもらって、すでにうっすらと死化粧まで施されていた。院長さんが「気道には何も詰まっていませんでした。老衰ということで死亡診断書を書きますが」ええそれでけっこうです。夜遅くまで対応してくれたひとたちに幾度も礼を言って引き取ってもらうと、手はじめに葬儀屋、叔父の忠広さんを筆頭に両家の親族、M道路のSさんと矢継ぎ早に一報を入れた。強盗に荒らされた跡のように散乱した家の中を片づけ、風呂に浸かり、立ち眩みを起こしている身体を横たえたのが十一時過ぎ、目を覚ましたのは一時半だった。父親はぼくの隣でわずかに口を開け、いつもの寝息を立てているようにしずかに眠っている。
Cさんが介助に入った夕刻にはまだ息をしていた。いつもは瞑ったままの両目が、このときは薄目を開いていた。その目がじいっと一点を見つめたきり動かない。Cさんは不審に思いながらも、ふだん通りベッドを起こし水分を摂らせるとゴクゴク呑んだ。事実ベッドの傍らには、あらかじめぼくが用意しておいたOS―1ゼリー二本と栄養ゼリー一本が空になってお盆に乗せられていた。薬を混ぜたプリンも平らげていた。完食だったのだ。ところが食事を済ませたそのとき、目が急速に光を失い、いきなり電池を抜かれたアナログ時計の針のようにピタッと呼吸が止まった。「ヤバイ、と思いました。でもほんとうにしずかに逝かれました」
なるほどおだやかな表情だった。これが最後の晩餐、存分に平らげてから逝こうと思ったのか。大好物だった鰻でも出してやっていたら喜んで食べたろうか。この日、午後四時からは訪問入浴の予定だった。ぼくは待ちわびていた。たまの機会だ。一週間ぶりに便で汚れた身体をすっかりキレイに洗ってもらって下着もパジャマも洗い晒しの日差しをたっぷり吸ったモノに着替えさせ、シーツも枕カバーも新しく下ろしたものにそっくり替えて、ことごとくさっぱりさせたかったからだ。けれどもっと待ちわびていたのは、どうやら本人の方だったらしい。
いかにも気持ち良さそうに湯舟に浸かっていた。上がってからまだ湯気がかすかに立ちのぼってみえるホカホカの身体をベッドへ横たえた父親の耳元で、
「あったまった?」
と訊いたら、
「うん」
という声が聴こえるかのように首を縦に動かした。
沐浴をすませスヤスヤ眠っている父親を、すでに旅立ちの支度を終えているとも知らずに置きざりにして玄関の鍵を郵便受けに入れ、新宿へ出かけたのは、それからまもなくだった。玄関の脇では、水仙の白い花が満開を迎えていた。
(第16回 了)
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*『春の墓標』は23日にアップされます。
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