優れた純文学はなんらかの形で現代固有の特質を的確に表現した前衛でなければならない面がある。ただ文学は長い歴史を持っている。各時代の〝現代〟が分厚く積み重なっているのだ。〝前衛〟は基本的に未知の表現領域の開拓ということになるが、文学の場合、そのベクトルは過去に向いていても未来に向かっていてもよい。人間存在の基層に遡って未知なる普遍的原理を見出してもいいし、現代の変化に主眼を置いて人間存在の変容を描いてもよい。古典的な顔つきをした私小説でも、新たな技法を使った前衛小説でも純文学になり得るわけである。
文芸誌では最近、プロパーな小説家を後回しにしてでも、詩人や劇作家、批評家に小説を書かせることが増えている。ちょっと自己否定的ではあるが、現代的変化を捉えるための試みだと言えなくはない。現代社会は現在進行形で大きく変化しており、それを敏感に感受しているのは小説家より他ジャンルの作家であることが多い。簡単に言えばポスト・モダンという意識=世界観である。世界にはもはや中心規範とすべき思想は存在せず、世界原理は網の目のように絡み合う無数の関係性から生じるという認識である。
このポスト・モダン思想は、作品としては自由詩の世界で一九七〇年代頃には登場していた。八〇年代になって小説批評家らが盛んに援用し始め、九〇年代から二〇〇〇年代には前衛小説を指向する小説家の間にも広まりある程度の作品群を形成した。現在ではポスト・モダン思想は新規な思想というよりもはや一般思想として定着している。世界に規範思想がないのなら世界は無限の関係性――つまり膨大な過去リソースの接合と解体になる。二〇世紀中頃までは漠然と作家個人の特権的天才によって生み出されると思われていた新奇な思想・表現は、ポスト・モダン現代では実は過去リソースの組み替えだったということがネタバレしているわけだ。
そのため作家たちは過去リソースの引用やモディファイによって新たに作品を作り出そうとする。ラノベやサブカルの業界ではこの傾向は二次創作などの形で巨大ジャンルを形成するまでになっている。サブカルの人たちが小難しいフランスポスト・モダン思想を知っているわけではない。しかしだからこそポスト・モダンは一般概念になっていると言うことができる。
さすがに小説業界ではサブカルよりはちょっと難しいことが行われている。ポスト・モダン思想を前提とすれば、世界にはもはや新しい思想や技法などは基本的に存在しない。そのためポスト・モダン系の小説家は小説ではもはや何も書くことがないという小説を書いたりする。読んでいて面白くはないし、少し先になれば、「ああそんな小説あったね」で忘れ去られるような気がするが、一つの必然的流れではある。ただ表現にはなんらかの求心点が必要なわけで、それはたいてい作家の私性に措定される。書くに値することがなくても人間は私性から逃れられない。人間存在(活動期間)は有限なのだ。絶対矛盾と言えばその通りなのだが、とにかく書かなきゃ小説にはならないわけで、書くに値することがないという前提で小説を書き始めると極私的な私性を書き連ねることになるわけである。
この傾向も一九八〇年代には自由詩が先取りしていた。自由詩の世界では八〇年代に女性詩の時代があった。言うまでもなくそれまで自由詩を代表してきたのは戦後詩であり、男たちの社会思想がなんらかの表現基盤になっていた。それをなし崩しにする形で女性の性や生理を赤裸々に表現する女性詩が登場し、一定の読者を獲得したのである。これが九〇年代に入って小説界にフェミニズム論や男流文学論といった形で飛び火した。社会思想、つまり世界規範思想の崩壊に対応する動きは八〇年代から始まっていて、今やそれが一般化したということである。
ただこういう頭でっかち作品は意外と底が浅い。難しげなことが書かれているが、一般読者にとっては「ヒマなインテリの戯言だね」で終わりである。実生活では作家だけじゃなく読者だって忙しい。わざわざ小説を読むなら現代社会の尻を撫でるような手つきの作品ではなく、なぜそうなのか、これからどうなるのか、あるいはそこでの人間存在はどうあるべきなのかといった問いの答えが、切実な形で表現されている小説が読みたいのである。だから相変わらずオーソドックスな小説が書き続けられているわけだ。
ただオーソドックはオーソドックスで様々な問題を抱えている。小説あるいは小説の母体になった作品をうんと過去まで遡れば明らかだが、その基本は現代と変わらない男女関係や家族・友人関係、金銭問題、故郷への愛憎といったものである。大衆文学なら衝撃的な事件で物語を引っ張りヒューマニズムで物語りを終わらせてよい。それが読者に昔ながらのカタルシスを与える。ただ純文学ではそうもいかない。ぶ厚い小説基盤を力ずくでこじ開けて原理を把握し、それを現代に活かさなければならない。新しげな小説を書くより難しい。またオーソドックスな小説家には前衛などといった意識ははなっからなく、単に過去作品をなぞっている場合も多い。
純文学をものすごく表層的に捉えれば、きっちり起承転結をたどって物語を完結させる大衆文学〝ではない〟小説ということになる。退屈でも読者が付かなくても、大衆文学的クリシェを回避している作品はみな純文学だと言えないことはないのだ。それは確かに純文学の要件の一つではあるが、それが長年積み重なると自ずから別のクリシェが生じてくる。私小説的アトモスフィア文学である。オーソドックスな純文学を書く作家の場合、従来の文壇評価基準に沿って日本文学らしい小説を書いているだけなのか、まだ十全に表現されていない作家思想があるのかよくわからないことが多い。
「お祖父ちゃんのきょうだいは、おれが何を尋ねても、同じことばかりで、何を訊いても、同じこと言うばっかで、相手になんね。(中略)」
「だからといって、親戚を殴ったり押し倒してはいけない」
「一人ふたり、へんなのがいたんだよ。おれの訊くこと『そだなしらね』って怒鳴って、かと思えば、しつこく、注がれたビールを飲めとか(中略)言って暴れるんだよ。意味不明だ」
「そうか、わかった。うん、酒を強要されて、拳で応えられるなんて、子供はいいなあ」
春馬は冷たく言った。
「いや、そもそも子供はアルコールを飲まないし」(中略)
春馬は「何が『そうか』なの? 何が『なるほど』なの?」とまた少し冷たく言ったが、幸三は答えなかった。英会話教室に着き、春馬は車を降りた。
(板垣真任「大声の歴史」)
板垣真任氏の作品は文學界新人賞受賞作「トレイス」(No.074)、「すら」(No.096)を取り上げたことがある。気になる作家なのだ。「大声の歴史」の主人公は幸三で山形県村山市浮沼という田舎の村に住んでいる。三十七歳で妻・瑛理との間に小学生六年生の息子・春馬がいる。実家は父の代からの理容店だ。幸三も理容師になった。ただ妻とは別居中で幸三は理容師の仕事をしておらず、同じく理容師の資格を持つ瑛理が店で仕事をしながら春馬と幸三の母親と住んでいる。離婚間際の夫婦だが、多少世話をしているとはいえ、息子と実の母親の世話を別居中の妻にさせているわけだから、幸三は責任感の強い男ではない。
田舎の村に住む人々の生活は特殊な面がある。特殊だということをまったく意識していないので特殊なのだとも言える。小学生六年生の春馬は敏感にそれを察知して、その正体を知りたがる思春期に差しかかっている。親戚筋の老人の会話は春馬には意味不明だが、なにか秘密があると感じている。中でも気になるのはセキという老人だ。痴呆が進んでいるのか生まれつきなのかわからないが、まともに話もできないような老人で、しばしば春馬の住む理容店の前に現れてじっと家を見ている。しかも父親の幸三が内緒でセキと親しげに交流している。謎解きの仕掛けが設定されているわけだがそこは純文学である。謎はあっさり明かされる。
「セキ爺っていのは、おれのじいさん、つまりお前のひいじいさんの子だ。でも、おれのばあさんから生まれたんじゃなくて、じいさんの妹から生まれたんだ。さらにそのじいさんんの妹は、じさんの父さんの、内縁の妻の、腹違いの子なんだな。ややこしいか。まあとりあえず、じいさんは自分の妹に子供を生ませたんだ」
春馬はシロを羽交い締めにして、その臭いを鼻腔いっぱいに吸った。
「なんかすごいね」
「そうかもな。じいさんはセキ爺とその母さん、つまり自分の妹を浮沼から追い出した。セキ爺の母さんは、もう浮沼の瀬尾の人間じゃなくなって、山の隅で苦労してセキ爺を育てたんだろうな。町にも、下りたろう」
(同)
幸三は春馬が知りたがっている秘密をあっさり教える。もちろん全部ではない。またセキ爺を巡る話は昔話ではない。幸三は実の妹の瑞樹と高校生の時から近親相姦していて、それは今も続いていた。それだけでなく高校時代から瑞樹を含めた女たちと手当たり次第にセックスしていた。金のない高校生で田舎だから人気のない場所ですることもあった。現場を見られると男ならリンチのような暴力を加えて口止めした。
やがて幸三は村から離れた場所に住むセキを手なずけて、セキの家でセックスするようになった。加えて幸三にはセックス中の女の写真を撮る性癖があった。女だけではない。リンチした男の写真も撮った。結婚してしばらくは控えていたが、幸三はまた女遊びを再開した。大人の女だけでなく女子高生も含まれていた。それがバレて瑛理との離婚話になった。倫理的呵責は一切ない。それが幸三の日常だった。また幸三は一種の「戦利品」として、女たちとのセックス写真を行李に入れてセキの家に隠していた。
「ここで生活していたんだなあ」(中略)
それから少し集中して辺りを見回し、幸三は郵便物や公共料金の屑を見つけようとした。無かった。
春馬の方は足元の黒いケシズミを蹴ったり踏んだりしていた。彼はふとつぶやいた。
「ねえ」
「うん?」
「あの箱がある限り小屋に行っちゃうと思ったんだ」
「誰が」
春馬は驚いた顔で幸三の方を向いた。
(同)
セキの小屋がボヤを出し、家は半焼してしまう。火をつけたのは春馬だった。春馬は留守がちのセキの小屋に入り込み幸三が溜め込んだセックス写真を見ていた。春馬の言葉に沿えば彼は両親の不仲の原因は幸三の行李にあると考え、それもろとも小屋が焼けば何かが変わると思っていたのだ。しかし幸三はそうではない。ラブホテルのように使っていたセキの家も行李の中身も彼には大して重要ではない。手当たり次第に女とセックスしようと男に暴力をふるおうと、幸三はすべてがすぐに日常に戻ってしまう狭い村の中にいる。
幸三は家に上がって茶の間に入った。さまざまな窓から夕暮れの光が差し込んでいた。光は畳にいくつか橙の四角形を描いていた。そのうちの一つに幸三は寝転がった。両手両足をいっぱいに伸ばして、天井に向かって怒鳴った、吠えた、彼の地声を叫んだ。ひとしきりそれが済んだあと、彼はつぶやいた。
「飯」
もうこの家には幸三を除いて誰もいなかった。彼はうずくまった。耳を塞ぐと弱く震えた声が遠く近く聞こえた。
(同)
妻との離婚が成立し、彼女は春馬を連れて恋人といっしょに村を去った。痴呆が進んでいた幸三の母親は介護施設に入ることになった。幸三は実家に戻った。彼には赤ん坊の頃から大声で叫ぶ癖があり、思春期になると自分でも抑えられず、場違いな所で叫び出してしまうこともあった。簡単に言えば幸三は叫んでいる。叫び続けている。その理由が何か彼自身わからない。最後に家に帰るといつも母親に言っていたように「飯」とつぶやくことから、それは生理に近いものである。村の狭い社会と淀んだ血縁関係の網の目に捉えられているのだと言えるかもしれない。しかし彼の叫びはどこにも行き着かない。
「大声の歴史」は現代から少し昔に設定されているが、一般倫理では指弾されるようなコトが日常的に行われてる場所は日本全国にある。「大声の歴史」でいえばそれをいわゆる東北力の闇の力として捉えることもできる。もちろん小説に結論が、大団円がないと批判しているわけではない。ただ書き尽くされていないという印象はある。
板垣真任氏は二〇一四年に文學界新人賞を受賞したが、現在まで発表した作品は「大声の歴史」を含む短・中編わずか四作である。圧倒的に作品発表の場が足らないのではないか。年に一本くらいの作品を渾身の力を込めて書いても先に進めるとは限らない。板垣氏の小説には似たような鬱屈が描かれている。駄作でも失敗作でも、今作家を捉えているテーマを余すことなく書き尽くした作品を読みたいと思う。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■