美声遺伝子について考えていたのだった。骨格による声の相似は特に同性の親兄弟、姉妹ではよくある。話す声がそっくりで、故人が偲ばれることもしばしばだ。しかしながら音楽における美声遺伝子はそれとは違うようだ。「個」を超えた共有される価値としての「美声」というものがアプリオリに存在する。そういう認識でないと、説明しにくいことがある。そしてそれは天性のものらしい。
先日、ある人気レストランに食事に行った。手頃な価格で、特に肉料理がおいしい。やがて生演奏が始まった。インスツルメントではなく、ピアノの伴奏で男の人が歌う。それが食事中に大変苦痛であった。スクリーンには研鑽を重ねてきた経歴が映されている。プロだということだが、もしそれが金を得ているという意味なら、本人の問題である。他人に快楽を与えるかどうかは別の問題だ。
アンコールまで続くあまりの五月蝿さに終わった瞬間、馬鹿じゃないの、と声を上げてしまった。ことわっておくが、私は普段はそう頻繁なクレーマーではない。ただこのときはミュージックチャージを3倍払ってもやめてほしかった。騒音が深刻なトラブルになる理由がよくわかる。そこにいるかぎり逃れられない。すなわち出て行けと言われているのと同じことなのだ。
さすがにすっ飛んできたウェイターに、なぜド素人のカラオケを聞かされなくてはならないのかと訴えたが、彼にできることは次の演奏が始まる前に、ワーニングすることだけだった。つまり私たちは喜んで追い出されたのだが。もちろん声質も一種の知性だろうし、声には生まれながらにして歌うべき声とそうでない声がある。研鑽に意味があるのは前者のみだ。
そしてこの歌うべき声は、その声の個性とは別に、そのように聞かせるべき声として出現するという固有の遺伝子を形作っているのではないか。そしてそれはどうやら、両親ともにミュージシャンである場合に色濃く出現する。両親ともに歌手である必要はないだろう。どちらかの声に似ているというのではなく、音楽そのものとしての声が出現するからだ。宇多田ヒカルが、まずはまさしくそうであるように。
ONE OK ROCK の七色のボーカル。YouTube でたまたま耳にした瞬間、文字通り色彩が目の前に散った。さまざまな声音を使うというのとは違う。本質的に変幻し、なお常に力強く、常に甘い。なんだこれは、と言う以外なかった。だからそのまま若い人に聞いた。なんなの、あれは。「あー、なんか森進一の息子だそうっすよー。」20代後半で森進一を知っていたのを褒めるべきだろうか。
私はそのとき奇妙な敗北感に打ちひしがれていた。森進一にしてやられた、という。するとなんだ、森進一のあの声は紛うことなき美声だったのか。そして森進一の息子だということはすなわち森昌子の息子なのである。音楽性では、実は元亭主をはるかに凌ぐと言われていた森昌子にも、そして森進一のあの独特のしゃがれ声にもTaka の声は似ていない。ただそれは音楽そのものだ。
これは歌詞のレビューなのだが、宇多田ヒカル同様、ONE OK ROCK もまた歌詞は問題ではない。語りかけてくる言葉は、遺伝子の並びだ。クリエイテビティも研鑽も相対化・矮小化する天性のものは、おそらくは本人の意志すら離れてエゴを感じさせない。音楽そのものはそこにしかなく、私たちは社会化された人声によって追われることなく、天国を出て行く必要がない。
小原眞紀子
■ ONE OK ROCKのアルバム ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■