たまたま目にしたとある地方新聞のコラムでした。「黒い浪」とのタイトルから東日本大震災の津波にまつわるコラムだと思い、正直「またか」とか「まだ何か残っているのか」といった思いで活字を追っていきました。案の定コラムは、盛岡在住の俳人小原啄葉(おばらたくよう)の最新句集『黒い浪』に収められた、あの3月11日以降の句を取り上げた文章でした。「俳句界の重鎮」と紹介されたこの俳人の名前すら知らなかった私ですが、その日付によって分け隔てられて引用された二つの句から、この俳人の名前は是非記憶すべきであると悟らされた次第です。
亡き妻へもたれて眠る日向ぼこ
地鳴り海鳴り春の黒浪猛(たけ)り来る
小原啄葉氏は御年91歳。これが9冊目の句集です。たしかに「重鎮」と呼ばれるに相応しい人物といえましょう。しかしこの震災前後に詠まれた二つの句の間に横たわっている時間には、91歳という年齢や9冊目という俳歴や「重鎮」という呼称といった尊敬をいくつ並べようとも釣り合わない、生死(しょうじ)の重さがかかっています。震災後に書かれた他の句があわせて紹介されていました。
春泥のわらべのかたち掻(か)き抱く
この村の蝌蚪(かと)は蝌蚪なるまんま死ぬ
いくさにもつなみにも生き夕端居(ゆうはしい)
震災俳句、震災短歌、震災詩、震災小説、震災映画・・・東日本大震災から一年半近くが経過した今、我々の目の前には夥しいほどの震災をモチーフにした芸術作品が現れました。そのほとんどの作品が、想像を超えた津波を目の前に突き付けられたあまり、想像して書くことへの後ろめたさから一時的な創作意欲喪失に陥った震災直後の空白を埋め戻すかのように、ここ一年そこそこで量産されたものと言っていいでしょう。
そうした作品の多くは、失われた意欲の反動とも思えるような、より挑戦的な創作へと自ら向かっていくことになります。そうした挑戦意欲はすぐさま作品に反映されます。俳句に話を絞れば、無季であるとか新たな季語の認知であるとか、あるいは震災という主題詠であるとかいった、言うなれば創作実験の模索となって現れました。それはそれでいいのですが、そうした作品が災害による人の死に対し、切実な感情表現を持ち得ないのもまた当たり前といえば当たり前です。そこには何のために震災をモチーフにするのかといった問題認識が完全に抜け落ちていると言わざるを得ません。そして何よりもそうした震災句の短命さ加減は、今後の俳句史による証明を待たなくとも明らかでしょう。
小原啄葉氏の震災句は、冷徹な激情によって成立しています。それは詩の遺産である叙事詩によって古よりもたらされてきた時代の空気そのものです。つまり小原氏の句は多分に叙事詩的だと言えます。それは彼が「事件」の「当事者」であることに由来します。この当事者であるという認識こそが、これらの句を凡百の震災句と分け隔てているのです。
例によって長過ぎる前置きとなってしまいました。本題に入りますが角川「俳句」7月号は3号連続の創刊60周年記念号の最後に当たります。そしてその巻頭カラーグラビアがなんと小原啄葉氏なのです。なんというタイミングの良さ、というか新句集刊行直後であれば媒体を越えて評判になっても驚くには当たりません。明るいブルーのスーツにタイをシングルノットで締めた小原氏は、好々爺然りとした穏やかな笑みを口元に浮かべて真っ直ぐ前を見つめています。口元の表情とは異なる寂しさを湛えた眼差しが、津波に攫われた人命を思っているかのようです。「重鎮」というよりも「長老」といった方が似合っているかもしれません。他人の死を悼む表情とは小原氏のそれに違いありません。
句歴80年と一言で言いますが、その時間が顔の皺一本一本となって刻まれるまでには、一体どれだけの人の生死(いきしに)と向かい合ってきたことでしょうか。先に引用した「いくさにもつなみにも生き夕端居」という一句には、震災という「事件」を超えた、人生の当事者として生きている手触りがあります。震災というモチーフには「死」の重みが常にかかってきます。この重みを当事者でもない人が表現しようとしても徒労に終わるばかりです。想像でもなく伝聞でもなく、当事者としての死の経験があって初めて震災句と成り得るのです。当事者でないなら震災句を詠まないか、別のアプローチが可能になるまで時間を置いた方がいいのではないでしょうか。当事者であることこそ震災句の条件なのです。
60周年記念号の誌面に戻りましょう。大特集は「平成の名句600」と題し、「俳壇の第一線で活躍中の俳人20名が平成の名句30句を厳選するとともに、平成俳句とは何かを語る!」とあります。「極めつき!」との吹き出しまで付いたタイトルですが、「600」「20」「30」という数字には何の意味もありません。名句の数はもとより、俳壇で活躍中の俳人の数などいくつであったとしても、俳句の文学性を考えるうえに何の影響も及ぼさないのは明確です。またそれほど文学的に考えなくても分かるように、平成俳句という枠組みの設定自体に頭を抱えざるを得ません。編集者はせっかくの60周年記念号なのだから、内容はともかく俳句史に残るようなインパクトのある特集タイトルをと頭をひねった挙句、平成になって24年というほぼ4半世紀の区切りの良さにたまたま気付き、あまり深く考えることなく「平成俳句」というこじつけに走ったとしか思えません。文学の世界でこうした年号による短絡的な括り方が通用するのは俳句の世界だけと言ってもいいでしょう。
百歩譲って「平成俳句」というこじつけが、俳句の文学的変化に偶然にも光を当てるとすれば、昭和から平成へと移り変わった西暦1989年を境に、それまでの昭和俳句において死んだものは何なのか、平成俳句で生まれたものは何なのかを、選句した600句の読みによって指摘することができるはずです。しかしこの特集形態では、選者に与えられた文字数からして選句した句を語るだけの余裕はないでしょうし、実際に選んだ句そのものについて語った文章はほとんどありませんでした。語ったとしてもせいぜい30句全体の印象に過ぎません。これでは好みの問題と言われてもしょうがない。この選句は選ばれた句の作者にしても挨拶程度にしか思えないでしょう。挨拶程度の句であるなら、たとえ600句集まったって挨拶を越える価値は期待できないでしょう。
「今こそ俳句!」という記念号のサブタイトルが表しているのは、この特集が初学者向けに俳句の魅力を啓蒙する目的にあるということです。だから「平成俳句」という括りには、初学者が先ず見習うべき最も身近な俳句という啓蒙的な価値がある、という言い訳も成り立つでしょう。第一線で活躍する俳人が選んだ時代の最先端を行く作品なら、なにより初学者が作句する際のお手本としてより現実的と思われるからです。現実的というのは、いわゆる俳句史に残るような「文句無しの名句」では、初心者がお手本として真似をするにはあまりに縁遠い。平成俳句なら初心者の「身の丈にあった名句」として真似し易いというわけです。つまりこの600句は「名句のようなもの」と言えるでしょう。
もちろん俳壇ジャーナリズムをリードする角川「俳句」の依頼ですから、選句とて気軽にできるわけではないでしょう。選ぶことによって自らの俳句能力が不特定多数の評価に晒されるかもしれません。選ばれた作者はもちろん、選ばれなかった俳人にとってもそれ自体が第三者の評価になるかもしれません。でも初学者啓蒙のための「名句のようなもの」なら、30句選んだところでいくらでも言い訳ができる。と言うか、選句自体が言い訳であるとも言えるでしょう。このようないくらでも挨拶として済まされるような甘さこそが、俳句を常に文学から遠ざける要因になっていると言えるのではないでしょうか。
「平成俳句」をここ四半世紀に亘る現代俳句の潮流と捉え直すならば、現代詩の批評に「ポスト戦後詩」という視点があったように、「ポスト現代俳句」とか「ポスト戦後俳句」といった俳句的な視点が開けるかもしれません。ただ詩と勝手が違うのは、現代俳句が俳句史という長大な歴史の一部に過ぎないという特殊な事情によるもので、たかだか四半世紀では変化の潮目すら見えないに違いありません。おそらく第一線で活躍する俳人とはいえ、自らの俳句作品という葦舟が俳句史という大河の流れのどのあたりを漂っているのかという認識には正直至らないのではないでしょうか。「平成俳句とは何か」という本特集の問いかけに対する俳人の答えが揃って曖昧模糊としたものにならざるを得ないのも、平成という時代の平穏な不毛性だけに起因するとは限らないでしょう。
そうした「平成俳句とは何か」という無謀とも言える問い掛けに対し、無謀なりに真摯に答えている俳人も見受けられます。岩淵喜代子氏は、近松門左衛門の虚実皮膜論を俳句の諧謔に当て嵌め、虚実が均衡していた虚子の時代、戦争により実に傾いた昭和俳句を経て「人生探求派」を生んだ重くれの時代、そして平成はその重くれを払拭したところから始まっていると捉えます。さらに、平成俳句ではそれまで画然と存在した伝統と前衛の境が曖昧になった、とその特徴を大雑把ながら的確に指摘します。ただ残念なのは、岩淵氏がこうした印象や表層にいま一歩深く踏み込もうとはせず、「平成の30句に絞るという作業をことに難しくしている」と個人的な問題にすり替えることであえて答えを回避します。
島田牙城氏は、平成期初頭は「現代俳句」と呼ばれた一時代に終焉を告げるために用意されていたかのようだと語り始め、今世紀初頭以降「現代俳句」の範疇ではすでに論じ得ない俳句が生まれ始めているとして、「俳句甲子園」(イベント)や「週間俳句」(ウェブ)といった俳句における新媒体の隆盛に目を向け、俳句が本格的な「個」の時代に突入すると予想します。しかし催事や媒体の登場は俳句の本質とは無縁です。個の時代にしても俳句が呼び寄せたというよりも、社会現象同様に俳句の世界にもそうした現象が到来したに過ぎません。島田氏はそうした現象に対し、作者としてのより揺るぎない信念と、読者としてのより広い包容力が求められると結んでいますが、これではただの物分りのいいおじさんです。せっかく優れた時代の洞察眼をお持ちなのですから、自ら規範となるような価値基準の主張が欲しいところです。でないと老化は瞬く間にやってきます。
「平成俳句」について感じること、として岸本尚毅氏は次のように続けます。「(平成)元年に二十八歳だった私にとって、平成の四半世紀は憧れの俳人との死別の歴史であった。爽波、裕明、曹人、敏雄、晴子、龍太、幸彦、展宏など。この人が私の句を見ていると思うことが私の句作に緊張感をもたらしていた」と。無謀な問い掛けに対しては無謀な答えでもって応じるのではなく、それとは分らないようなさり気ないはぐらかしで応える。はぐらかしではあるけれど、素直な初学者が読めば前向きな共感を呼び起こすことができる。けっして皮肉るわけではありませんが、岸本氏のような人こそ未来の俳句結社を率いる人材として、遍く俳句界から必要とされることに疑う余地はありません。もちろんそうした人材の好き嫌いは別問題ですが。
岸本氏は昭和36年生まれ。ということは50歳を過ぎたところでしょうか。岸本氏の俳壇における位置付けは知りませんが、「俳句」誌上への登場頻度から察するに結構な期待を背負っているように見受けられます。連載中の宇井十間氏との往復書簡による「相互批評の試み」においても、文学的かつ挑発的な宇井氏の問題定義を嫌な顔ひとつせず(見たわけではありませんが)引き受け、一段階ステップアップした視点から真摯に向き合う態度には、若手世代をリードする自負と自信が垣間見えます。
第7回は「多言語化する俳句」と題し、いつのまにかすっかりヒール役にはまってしまった宇井氏が、この数十年の俳句界を「俳句が国境を越えて多言語化し、偏在していった時代」と、こじつけではないかと思えるような強引さで問題定義しています。こうした時代認識の背景には、夏石番矢氏を中心とした世界俳句協会の活動があるのでしょう。しかし、俳句の多言語化と一言でいいますが、日本語と他言語との関係が単に相互翻訳だけの現状で、果たして有機的な文学関係にあると言えるでしょうか。
宇井氏は多言語化の歴史のひとつとして、今世紀初頭の英米詩を変革したイマジズム運動の主導者エズラ・パウンドの名前を上げていますが、パウンドの俳句へのアプローチは、イマジズムを理論武装するための強引な援用でしかなく、これこそこじつけ以外のなにものでもないのは誰でも知るところでしょう。「私たちの慣れ親しんでいる日本語の俳句とその常識は、しばしばそこでは通用しなくなります」と大げさに言うほど、現状では俳句の多言語性が俳句の文学的問題足り得ているとは思えません。
こじつけはパウンドに免じて許したうえで先に進みましょう。宇井氏が前回に引き続き俎上に載せるのはスウェーデンのノーベル賞詩人トーマス・トランストロンメルです。受賞によって日本詩壇にもその名が知れ渡ったトランストロンメルですが、その紹介報道のなかで俳句に造詣が深いということを、ネタ探しに苦労するマスメディアがこぞって強調するあまり、このようにジャーナリズムに敏感な俳句関係者が作品を取り上げるまでになりました。ただ、トランストロンメル氏は母国語がスウェーデン語ですから、作品は英語の翻訳か数少ない日本語訳で読むしか現状ではないようです。
しかし、詩人トランストロンメルにとって短い自由詩と俳句形式の違いがどこにあるのか、その翻訳された英文はもとより、宇井氏自身による英文の日本語訳からも判然としません。俳句の本質が俳句形式にあるなら、トランストロンメル氏の作品を俳句形式によって提示するべきです。俳句に造詣が深いからといって俳句が書けるわけではありません。俳句形式を迂回して俳句は書き得ないのです。「語り得ぬものには沈黙するしかない」とウィトゲンシュタインが言うように、外国語で俳句形式が不可能なら俳句を語るべきではない。
「俳句観とは過去の(作品の)記憶の集積に他なりません。しかし、数十ヶ国語で書かれつつある世界俳句/国際俳句の書き手たちに、そうした前提を要求することはできません」としたうえで、予想不可能な多言語俳句に影響されるであろうという前提のもと、現代俳句の行く末に暗雲を予感させるかのように宇井氏の書簡は結ばれています。しかし俳句観が過去の集積のみから醸成されるならこんなに簡単なことはありません。ネット社会のグローバリゼーションをもってするなら、世界俳句の書き手たちにそうした前提を要求するのは十分足りることと思われます。
むしろ、俳句観の共有をあてにできないと思い込んでいるにもかかわらず、現代俳句に対する多言語俳句の影響を懸念する宇井氏の推論は、いささか大げさ過ぎるとは言えますまいか。そもそも宇井氏は、多言語俳句に現代俳句を変革させるだけの可能性を感じているのでしょうか。あくまでもこれは下種の勘繰りですが、宇井さんは多言語俳句という必敗の俳句観を現代俳句の常識と対立させることで、現代俳句の必勝を担保した似非対立構造を、それこそ新たな文学的刺激として捏造しようとしているのではないでしょうか。
「異なる言語の使用者の間でどの程度の「前提」が共有可能なのだろうか、という点に私は興味があります」とは岸本尚毅氏の返信における骨子です。岸本氏は共有可能な前提のもと、トランストロンメルの短詩を17音の日本語に翻訳し直します。次に季題を入れた俳句形式へと改作します。どちらもいささか強引ですが、俳句形式という前提があって初めて、俳句を論じる場に立てるという信念が感じられます。さらにその類想として虚子の句を引用します。この一連の翻訳行為は、新たな俳句の読みを創造している点で見事です。翻訳とは他国語への意味の移植ではなく、異なる言語による新たな作品の創造であると思わせてくれるに十分です。
俳句形式という「前提」に対する二人の信頼感には多少のズレがあるようです。宇井氏は俳句形式を文学的な方法論として、いわば意味論的な認識として捉えています。岸本氏は俳句形式をより体感的に、俳句における前提として即物的に肉体化しています。こうした俳句形式に対するスタンスの違いによって、俳句観という「前提」までもが信頼感の差となって表面化します。
当たり前ですが言語が異なれば言語に付随するあらゆる機能が異なります。繰り返しますが俳句形式という言語機能は、俳句が俳句として成立する前提として極めて本質的です。俳句観とは俳句形式が生み出した一機能に過ぎません。俳句という文学形式が日本語という言語機能によって創出されたのはけっして偶然ではありません。俳句の多言語化によって俳句を捉え直す前に、我々は今一度日本語という言語機能を掘り下げるべきではないでしょうか。岸本氏の返信には、つねに根源へと立ち返ろうとする俳句観が読み取れます。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■