安井浩司は遅れてやって来た前衛俳句作家である。安井が優れた作家だと明確に認知されるようになったのは、それほど昔のことではない。端的に言えば一九八三年の高柳重信の死去以降、衰退に向かいつつある前衛俳句の系譜の中で、気がつけばほとんど安井一人が立っている光景が見えてきたのである。前衛俳句はいまだ多くの人が誤解しているように、新しい表現領域を切り拓くための試みではなかった。俳句の本質とは何かを問うラディカリズムだった。そして安井の評価が遅れた理由は、彼が最も真摯かつ原理的に俳句の根源を探求し続けてきたからである。
安井の処女句集『青年経』(一九六三年)の巻頭句は「渚で鳴る巻貝有機質は死して」だった。比喩的に言えば「巻貝」は俳句形式を指す。それは驚くほど堅牢だ。しかし肉(有機質)は既に死んでいる。巻貝の内部で俳句を作るのは容易い。極端なことを言えばどんな言葉を並べても俳句になる。だがその試みのほぼ全ては殻の曲面をなぞることで終わってしまう。だから真に俳句の本質を問う者は、俳句形式の殻はあり、その内実は死んでいると認識せざるを得ない。
安井俳句はここから始まる。腐臭満ちる巻貝の中で希望も絶望もなく俳句芸術の死を絶対認識した上で、それが鳴る時の、古くて新しい微かな音に耳を澄ますのである。それが安井俳句のアポリア(哲学的難題)である。評論集『海辺のアポリア』には、散文による安井の熾烈な思想闘争の軌跡がまとめられている。本稿では『海辺のアポリア』を元に前衛俳句の基本思想をまとめた上で、今後、本格的読解が始まるだろう安井文学の概要を考察する。
あらゆる芸術と同様に、明治維新は俳句芸術を大きく変容させた。問題の焦点はヨーロッパ的(近代的)自我意識をどう処理するのかという点にあった。そして俳句における自我意識の表現方法は、正岡子規によって基礎づけられ、高浜虚子によって確立された。「春風や闘志抱きて丘に立つ」のように、虚子はそれまでなかった強い自我意識を俳句で表現した。
しかし俳句は自由詩や小説のようには自我意識の表現の器として発展していかなかった。江戸的俳諧を近代的俳句にまで押し上げた虚子も、晩年には「花鳥諷詠」を重視し、一種の伝統回帰を果たしていった。それを安井は「虚子の俳句は、その理念から大きくはみ出す部分と、小さく萎縮していく二面を持っていた。大きく逸脱した部分、それが(中略)情念の「個」の部分であれば、小さく萎縮していく部分、それは(中略)小私としての「花鳥」浄土に生きた部分である」、「それは虚子俳句の自己矛盾というよりも俳句形式の自己矛盾と言ってよいかもしれない」(「高浜虚子私論」)と論じている。
この「俳句形式の自己矛盾」は現代まで持ち越されている。俳句は個の自我意識で変えられるほどやわな形式ではない。個が表現し得る観念や時代意識などたかがしれており、それはたちまち俳句形式に絡め取られてゆく。乱暴に言えば、大方の作句とは時代の流行を追いながら、それなりの審美眼で言葉を選び配置することだ。そうすれば定型の中で句はたちどころに成立する。それどころか偶然と僥倖で選ばれただけの言葉の取り合わせが、作家にあたかも自己以外の新たな自我意識(創造)をもたらすかのような錯覚を与えるのである。この繰り返しの中で、当初作家が抱えていた強い自我意識─虚子の「大きくはみ出す部分」は飼い慣らされ、次第に俳句形式に添い寝した「「花鳥」浄土」が現れる。後に残るのは得体の知れない俳人格だけだ。
俳句の世界では、前衛を称した俳人たちが、やがて結社の宗匠となり日々の作句に明け暮れるようになる光景は見飽きたものである。むしろいつの時代でもそれが俳句界の常態だと言える。従って俳句を日常のささやかな愉楽行為から救い出し、一つの文学として確立するためには、老獪な俳句形式そのものを問い詰めなければならない。
全ての表現形式を自分で作り上げる自由詩とは異なり、若い俳人は定型をなぞることから俳句を始めるのが普通である。しかし安井は少年時代の俳句を世に出すことなく葬ったと書き残している。従って安井の処女作『青年経』は、その表題とは裏腹に、習作を含む青年時代の句集ではない。それはむしろ血気盛んな大人の青年が、性急なまでの真摯さで俳句の本質に迫り、素手で触れんと欲望した願経の意味を持つ。安井はその出発時点から既に確信的前衛俳句作家だった。そして安井青年が捉えた超えゆくべき前衛俳句の巨峰は二つあった。高柳重信と加藤郁乎である。
重信における多行形式とは何であったろう。それは、(中略)俳句の新しみを求め、今の「詩」を獲得しているのではない。それは、もっと逆接的なもので、古来の俳句形式において、多行形式を実践することによって、そこに高柳重信即多行形式(中略)というマイナス部分を生じさせることである。(中略)つまり「世界」に対して〝虚〟なる陰型として、この形式をこそ捉えてゆくことである。(中略)それが重信における真実の〝俳句〟行為ということなのであった。
(「高柳重信の世界」)
高柳重信は前衛俳句の実質的創始者である。重信最大の功績は俳句史上初めて、俳句の本質は俳句形式にあることを明確にした点にある。重信は俳人格を否定し、自我意識の表現の道具としての俳句を棄却してひたすら俳句形式に迫っていった。
重信の俳句形式の捉え方は逆接的である。重信は、俳句は「俳句」と呼ばれるなにものかが形式の殻をかぶって現れた言語表現だと考えた。そこで重信は五七五や季語の形式をいったん白紙還元し、そこから俳句そのものを奪還しようと試みた。ア・プリオリに俳句形式を認めるのではなく、俳句が形式を生み出す原理を解明しようとしたのである。
その一つの帰結が重信による多行俳句(主に四行で書かれる俳句)の試みである。重信作品に侘びや寂び、あるいは禅臭にまみれた俳人の影はない。それは現代詩となんら変わらない言語のみで屹立する文学である。
多行俳句は解体にまで到る俳句形式の探求を通して、重信が独自に作り上げた古くて新しい形式である。それは俳句の原点を探求する根源的試行だった。重信にとって、俳句母体である短歌の初源まで遡り得る言霊は決して遠いものではなかった。むしろ俳句の原点に立ち返ることで、重信は古代巫女のように言霊を招き寄せようとしていた面がある。
しかし安井が指摘するように、多行俳句が既存の俳句形式に対する「マイナス部分」、「〝虚〟なる陰型」であったのも確かである。既存の俳句形式を解体したが、重信はどこかで真の俳句形式の実体的存在を信じていた。それを安井は「高柳は、俳句形式の即自性に就く、どこまでも俳句であろうとする俳句、いわゆる俳句形式の思想を見事に具現するはずの〈俳句〉願望を持続して来たのである」と論じている。
多行俳句は重信文学の一つの到達点だが、それは再び強固な俳句形式に囚われる陥穽となりかねないものだった。重信はその危険性に敏感だったが、むしろこの危うい試みに戯れることを好んだ。
重信文学には必敗の予感を愉楽する審美的ロマンチシズムが流れていた。それが重信以降に、夥しい多行俳句の模倣者を輩出した理由である。その意味で重信は子規や虚子らと同様に、あくまで俳句=俳句形式の枠組み中で思考し作句する「俳句史の一本道に繋がる本格的な俳人」(安井)だったのである。
安井は俳句形式の探求こそが俳句文学の本質であるという重信の思想を受け継ぎ、多行俳句形式を継承していない。多行俳句は重信ただ一人のための形式だからである。
重信が明らかにしたように、俳句形式は俳句そのものの外殻に過ぎない。俳句形式は、俳句そのものが有する形式生成力によって生み出される。それは必ずしも五七五や季語である必要はない。重信だけでなく、山頭火や尾崎放哉らの作例からも理解できるように、無季無韻だろうと俳句は成立する。しかし人間が確実に捕捉できるのは俳句形式と、それを生み出す形式生成力の存在だけである。俳句そのものは人間には不可知の審級にある。重信はそれを知っていた。重信が必敗の予感を抱き、俳句そのものの探求ではなく新たな俳句形式の創出に向かった理由がそこにある。形式を通さずに俳句そのものを認識把握しようと試みれば、人間意識=言語は解体してしまうのである。
加藤郁乎においては、私性の否定として、遂に「不在」が語られる、もしくは「不在」そのものが主を演じる、それ以外の何物でもないようだ。(中略)それは見える私性が、とりあえず不在化したと思った方がよいだろう。(中略)不在という在があるのである。(中略)加藤郁乎はそのことを別自我とも言っている。そこに「不在」が在ることは、自我は限りなく〈他者〉として捉えられていくことであり、そういう〈他者〉をうつす鏡としての俳句形式は、近代の叙述様式から、なお一歩、念願の虚構完体へ接近したのではないだろうか。すなわち俳句形式は、〈近代〉を蹴上がる試みとして、私の手から離れて、彼の手のうちに落ちようとしたのである。
(「抛物線の行方」)
加藤郁乎は重信の試みを受け継ぎ、俳句そのものの無謀で直截な探求を行った作家である。郁乎の処女句集『球體感覺』(一九五九年)は、「冬の波冬の波止場に来て返す」「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」「一満月一韃靼の一楕円」といった、文字通り球体的言語張力を感じさせる俳句で多くの読者を魅了した。しかし「落丁一騎対岸の草の葉」で始まり、「このソノラマの死へいざ桂冠の金枝篇!」で終わる第二句集『えくとぷらすま』(一九六二年)では、『球體感覺』の美意識をあっさり捨て去っている。そして安井が最も注目するのは、通常の意味では決して俳句とは呼べない『えくとぷらすま』の言語世界である。
『えくとぷらすま』では既存の俳句形式要素がほぼ完全に排除されている。そこには人間の自我意識も含まれる。俳句の外殻である俳句形式から形式生成力を経て、さらに俳句そのものへと探求を遡行してゆけば、人間の自我意識は解体を経験せざるえを得ない。俳句そのものとは、いわば日本文化を生み出す力動体としてのカオスである。それを言語化するのは不可能だ。人間にできるのは、自我意識を不在あるいは他者に近い位相にまで客体化して、そこに俳句そのものの姿を映すことだけである。無(言語的無秩序)である俳句そのものを、無化した自我意識の鏡で捕捉するのである。
郁乎の言う「別自我」やectoplasma=霊化現象とはそのような事態を指す。『えくとぷらすま』では形式化される前の俳句そのものが無造作に投げ出されている。人間意識=言語は解体の瀬戸際に置かれているのである。しかし限りなく他者化・希薄化した自我意識のフィルターを通して俳句そのものが語り出す時、あれほど強固だった俳句形式は「念願の虚構完体へ接近」している。自我意識の強化によって俳句をねじふせようとする近代の試みは、「彼」、すなわち俳句そのものの微かなざわめきに耳を澄ます方法に転化するのである。
いまは、俳句形式を相対的なものとして捉えようとは思わない。(中略)前後左右をたちきったところに一回性のものとして存在するあり方。いや、文化や状況を気にする小心の形式の在り方ではなく、逆に、文化や状況の方が収斂してくるヒロイックにして極私的な在り方。そこを少し早口で言えば、俳句形式とは絶対的にこそ存在する、いや絶対を渇仰する彼方にみえてくる形式とでも言おうか。少なくとも、私なる、唯一の、生命的存在の絶対性は、俳句形式の絶対性を通過してのみありうるのではないか。私は、そこを誤解をおそれずにいえば、宗教的尊厳と、緊張と、歓喜と、たまさかの極楽性をふくみつつ、私有を最大に許された最後の言語形式として念願しておきたいのであった。
(「行く方に就いて」)
安井文学は重信と郁乎の方法を正確に継承している。郁乎は俳句形式を解体間際まで追い詰めたが、その先に拡がるのは言語的虚無だけである。俳句は形式抜きでは成立しない。しかし安井の俳句形式は、重信の多行俳句のように形あるものではない。それは「絶対を渇仰する彼方にみえてくる形式」である。そして「絶対」とは俳句そのものを指す。極論を言えば安井は俳句そのものであろうとしている。安井=俳句であろうとしている。安井の自我意識が俳句を「私有」、あるいは俳句そのものに溶解した時、俳句形式は「宗教的尊厳と、緊張と、歓喜と、たまさかの極楽性」を伴う「最後の言語形式」として現れるのである。
遠い空家に灰満つ必死に交む貝
雁よ死ぬ段畑で妹は縄使う
椿の花いきなり数を廃棄せり
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき
死鼠を常(とこ)のまひるへ抛りけり
隠者は手に揉みつつ食うぞ生鮎を
父上様は鏡で村を照らしおる
鶏抱けば少し飛べるか夜の崖
夏垣に垂れる系図も蛇のまま
厠から天地創造ひくく見ゆ
代表作を含む安井の俳句十句である。安井俳句では、新たな俳句形式の創出や、その逆に解体を目論む作家の強い自我意識は表現されない。端正だがどこかひどく不気味で魅惑的な何かが蠢いている。それが安井俳句の世界である。端的に言えば、安井俳句で表現されているのは俳句の内実、その 腸 (はらわた)のようなものである。そこに俳句形式はあり、かつない。安井の俳句形式は、俳句そのものが目に見える俳句として顕現しようと意志するとき、同時発生的に現れるのである。
子規と重信を除けば、安井ほど俳句について考え抜いた作家は恐らくいない。ホトトギスや新興俳句派と同様に、前衛俳句の系譜も近い将来絶えるのかもしれない。しかし日本文学から俳句が消え去ることはない。安井文学を理解するのは何人にとっても簡単ではないだろう。だが俳句を真摯に継承しようとする作家たちは、いつの日か必ず安井文学に直面することを迫られるはずである。
鶴山裕司
(『夏夷 leaflet』第5号 2009年11月30日刊 より)
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