逃げよ母かの神殿の加留多取り 『青年経』
実は安井浩司一文を安易にも引受けて以来、永い失語状態に陥っている。いちように与題からせめて一時的にも遠ざかりたい、いや願わくは永遠にといった件の逃避癖ではなく、なにかこれはより本然的なところから派生して来るもののように思えてならない。ふり返ってみれば、安井浩司との出会いの冒頭を飾る『青年経』『赤内楽』二句集の初期文体がまさしくそのようであった。当時の前衛俳句の影響下に俳句時間の初源へ遮二無二(しゃにむに)溯上せんとする一巻の青年像が夢みたものは、果たして後日譚の聞き違えでなければ、早々の老年であったという。ときに不連続な言語の重畳へ、イメージの一向に追いつけぬ焦燥感と、しかし奇妙に清明な伝達性と。正直に告白すれば、この二律背反の緊張に耐えられず、本能的に身の危惧を、ようやくに訪れようとしていたわが俳句黎明のにわかな暗天を察知し、臆病にも安井文体の神殿(パンテオン)より、体(たい)を飜えして逃げ帰って来たもののひとりだ。かの神託を仰ぐことなく、神々の遊戯(ゆうげ)を覗くこともなしに。ついぞここに半開ならぬ「生理半解のリトグラフ」一書よ。昂奮さめやらぬこの水位を、わが狭庭辺の筧へとひそかにも盗み水せんために、真っ先に私が犯した錯誤とは、その致死量相当の混濁を稀釈し、カオスを削ぎ落とすことであった。
狂人立つか帆が立つか便所のじぷす 『赤内楽』
戦後俳句がその胎動期も含めて、不思議な風景を三たび現出させている。一度は「葭切や屋根に男が立上る」(金子兜太『少年』所収、東京時代〈昭和十五年―十八年〉作)、そして「真直(ます)ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道」(中村草田男『美田』所収、昭和二十九年作)。葭切の男は修理ごときで屋根に昇ったわけではあるまい。何か内面の逼迫した情況が彼をして、表現体としての作為へと志向させたにも拘らず、この不条理は全景を一篇のタブローに化している。白痴が指した行方には、指向そのものを俳句天啓の場面(トポス)へと反転させる風景の二重性が描かれている。然らば狂人一句は、享受者即、安穏な鑑賞者となりうる一幅の風景画なのであろうか。俳句背景の傾斜的荒蕪地へ、一(いち)か八(ばち)かの半ば捨て身の表現行為を打ち立てんとは、むろん狂気の一本棒に、真黒き聖性の未来帆をくくりつける事に他ならないのだが、どうやらそれだけでは納まらず、同時に読み手にしきりと、何がしかの批評原理を要請して止まぬ共同謀議を成立させてしまったもののようである。然り、この相談に乗れないとあらば、直ちに席を立つ他はないのである。
キセル火の中止(エポケ)を図れる旅人よ 『中止観』
いまも筐底のどこかに、湿式複写機のコピー文字を朧気に滲ませながら、「お浩司唐門会(からもんかい)」の発足起草文が眠っているはずである。「浩司唐門会」なる不足の事態が煩悶しながら、ふと天から授かった「御」一字の典雅と鄙猥の恩寵。その「一夜松を遠景としたあらぬ俳句の眺望(パースペクティブ)」を宣言(マニフェスト)した一文の冒頭部分には、たしか、いや間違いなく「中止」の二文字に「エポケー」のルビが振ってあった。「エポケ」と「エポケー」。この一字の長音のあるなしが、わが俳句前史の追分けに、以後の四半世紀を分かつ岐路の、土ぼこり浴びた道標(エチカ)となろうとは。この際「エポケー」とは、認識の峠道のはや中腹で、早速に昼食(ちゅうじき)の一服を決めこみ、手翳しで中天仰ぐ日和見のまたの名であったろう。「エポケ」とは、存在と認識の亀裂に自らが楔する即非の論理、その命運の実の名であろう。中止観―中観の四句否定(テトラレンマ)に止観の言語止息が息潜み、やがて止(や)むこと、止(と)めること、止(とど)まることの「止」の位相と異相の帰納に「死」が中座へと招喚されしもの。すなわち中死観。死の途中息(エポケ)。――いやはや馴れぬ観念遊戯はここら辺りで大概にしよう。一巻の空恐ろしいまでの眩暈的読後感は、まるで高速回転する独楽があたかも静止の相を見せるが如く、迂闊にも近づけば、たちまちに指切られるダイナモの鳴動と酩酊に等しい。巻頭掲句より掉尾の「春の雁このまくらぎも死ぬつもり」へいたる漆黒の暗箱に納められた一巻を、それに先立つ兄句集、くれない色の見返しもつ大岡頌司の『花見干潟』ともども、永らく対極的な一対の「死者の書」として感受して来た。
琴捨ての
こは蛇の玉の
碧きひだまり
*
海の貰はれ
海靑く
この靑海の聲かぎり
『花見干潟』(昭和三十八年、俳句評論社刊)
かたや「日本海のほとりで詩神と契」(『もどき招魂』)り、かたや瀬戸内海の遍照の干潟に、詩歌伝統の死生観へと、白日下の夢想譚を送り届けんと冀求する一書。かつて戯れにその安井浩司の八方破れの反俳句性と、大岡頌司の言語迷宮の不知藪を、それぞれ、〝破れ浩司〟、〝藪頌司〟と節附け、くりかえし〱口遊みつつ、心秘かな私淑をいやまして募らせていたお蔭参りの夜々があった。これは「安井浩司を囲む会」も終盤ちかく、会場の喧噪をよいことに図らずも洩らしてしまったことなのだが、秋田、東京、飛騨高山と、中央突破し右旋回、帰着する周縁的(マージナル)な逆旅の旅程には、意外や、中心と周縁はじめ、日常と非日常、混沌(カオス)と秩序(ノモス)、聖・俗・穢、幼童と翁、汝と我といった、俳句戦略の高踏的命題の数々が見え隱れしていたのだと、いまにして思い到るのである。
蜘蛛の囲のふと天才である怖れ 『阿父学』
依然として書けない日々が続いている。じつとしていられない。せめて横にでも傾いていなければ、この地軸をずらされた地上での精神安定は、一向に保てそうにない。無理もないことで、おそらくこの数層倍の、比較を絶する苦闘のあけくれに、ほのぼのと地平染め上げる安井俳句の生誕が告知されたのであろうから。決まってこういうときの常套として、未(いま)だ書かれざる未生の文字の数々が、肌を粒立てていくかの如き不運な酩酊感に苛まされ、ただ自らを呪う以外に手だてのない言葉の海へ放逐されてしまうのだ。もしもここを脱がれん術あらば、たとえ流れ寄る一片の断章といえども、それこそ藁をも掴む思いで、手当り次第の頁繰りに最後の望みを託すであろう。あ、あった!パスカル「パンセ」第一章「精神と文体とに関する思想」。その最終聯、最終句――「その天才の不安」大胆な言葉が二つで多すぎる。――思い出した。パンセ一巻を縦糸に、無為の偶景が綴られたR・バルトの「パリの夜」の省察。そこに時々閃光のように行過ぎては、辺りの数行を照らし出していく「パンセ」の書名。ところで『阿父学』以降、各句集成立の背後に濃密に存在した数多の書物の名がある。例えば『密母集』ののびやかな生命感には、後期密教の破壊と創造の統一を企図した秘教的経典類。『牛尾心抄』『霊果』の句群の陰翳をより一層濃く際立たせている李杜はじめ謝霊運等、漢詩文山水妙境の地勢論(フェティシズム)。また「四民月令」「齋民要術」等中国農書の農耕的歳時詩学。やがてそれらは『乾坤』『氾人』『汝と我』の一千句集三部作を経るごとに、人類知の世界遺産その体系樹へと気流上昇していく。上昇といえば、以下は二十一世紀も中葉の極私的俳句史観ということになろうが、あの高浜虚子に並んで安井浩司が位置しているのである。乱暴といえば乱暴極まりないこの夢想ごときに、いまはまだ何の実証の術もない。再び思い出した。二十数年も以前の出会いの早々に、当時わが俳句初学の座宝鑑ともいうべき「百句燦燦」の著者を、天才詐称と一言の下に断斬したのは、他ならぬ安井浩司その人であった。
葛城山の山葡萄言語せざれども 『牛尾心抄』
さて詩人は、言語せざれどもと記すのだが、このしたたかにも率直な告白の結語に心寄せれば、「せざれども」の「も」の修辞の余韻は、ここに発語をうながした、即ちうながされた消息をこそ物語ろうとしてはいないだろうか。詩的言語の発生現場に、プレ言語とメタ言語と、非在と実在と、いやそれは遂に発語されぬままの山葡萄の有性(ウシア)を、そのけざやかな色彩と、たわわな実成(みな)りとに気色濃く語らしめているのだ。まるで葛城山中ふかき一言主の真言そのままに。一方「虻高し山は海から来るものを」(『汝と我』)と、造山活動と自身の精神律動を重ねながら、しかし掲句が示すごとく、安井浩司は必ずしも峻険な山巓を望んでいたわけではない。「漆山まれに降りくるわれならん」「蛇山の泡だつ人と籠るらん」(『阿父学』)。籠るに最適な反面、容易にはたどり着けぬ山稜構造を、二階精神の眺望視座に捕え、俳句評論系の伝統的な方法論でもある、云わば、詩的地勢学(ゲオ・ポエティーク)とでも称びたきものの片隅に記号し、端山ごもりの言語として醸成させて来たのだ。
葡萄樹の真下にて死を習熟し 『霊果』
中世アラブ=ペルシアのアブー・ミフジャンは、「葡萄樹の下の死」を願った最初の詩人であると云われている(杉田英明「葡萄の樹の下で」)。ここに西行法師の歌伝なども併せて思い起せば、仏陀釈迦牟尼の菩提樹下での悟りへと、転変の逆理を追慕する、汎東洋的涅槃の存在学がほのみえて来よう。たとえば『阿父学』あとがきに云う、「虚草からくさの、失われた地上性」、その再認識への遡行もまた、同様の涅槃行であると言ってよいだろう。裏こそが表であった日本海の貴種漂着性とは、はるか渤海を隔て、韃靼に日の没る水際から、さらに遠望のユーラシアへと、安井俳句原郷の地勢を想定するほどに、とおくちかく時空を超えるあらくさの靡きとかをりとが、植物探査の伴奏を奏でつつ、言語種の風媒として漂って来るのだ。ところで俳句形式において死を習熟するとはいかなることであろうか。ここのところをもし、俳句形式が死を習熟すると強奪すれば、それはもはや云うところの帰謬法の詐術に自ら進んで身を呈することにもなるのであろう。俳句形式における言語のエロスも、自己存在におけるタナトスの想念も、あまねく降り注ぐ陽光の下、葡萄が濃い樹影を地上に投げかける正中のまさにその時、生滅しよう。葡萄樹の真下とは、人が死を観照し、死が人を成熟せしむる聖所なのである。エロスもタナトスも、ともにかの合一へのhomeostasisを紡ぐ、静かな時間の平織りの……。
淋しさに寄れば孟暑に揺れる花 『乾坤』
俳句形式にさほど高邁な精神も思想も望まなくなって久しい。換言すれば、たとえば一句の〈読み〉と呼ばれるものに対して、そんな正解も、記号論もどきの明晰なる解析も、すでに欲しなくなったということか。いかなる自己弁護に努めようとも、これは間違いなく己自身の詩精神の衰弱に他ならず、まして衰弱以後の退路を枯淡、枯渇の別天地として受容するといった趣には、取りあえず与したくないのだ。安井浩司の詩精神の発露とは、まさしくこの一点をとってみても、俳句史へ別種の時間論を延着させ、内なる俳句文体との激越な抗争を展開して来たとも思えるのだ。なれば私はこの詩と真実において、一体何を欣求せんと俳句に関っているのだろうか。喜怒哀楽いずれの相もさることながら、わけてもかなしみと、憂いと、あわれと、いたみと、存在の過不足へと傾く情動があり、その赤裸の極みに、ふと行きずる路傍の野花を手招き、手招かれる自恃と慰藉がある。それはちょうど俳句形式と自己存在のそのように……。詰まるところ、せめてもそれだけはと、いまはひたすら思いたいのである。
酒巻英一郎
(「未定」第70号 特集・安井浩司 一九九六年十一月所収)
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