新宿梁山泊ブログより(以下同)
地下で根が複雑に絡み合い、その結節点から樹木が生えて物語として展開してゆくのが唐演劇だが、『腰巻おぼろ』にも動脈とでも呼ぶべき太い根(意識/無意識の混交)はある。申大樹が演じたガマという少年とおぼろとの関係である。
少年 (一本の毛を拾う)恋をするならば、こんなに茶っぽい薄い毛の女になどしやしない。たった一本の髪で喉をしめ殺すような女としよう。今日、女の部屋にゆきました。もう、誰も住んでいないその部屋で、犬のように嗅ぎまわりました。(中略)破里夫さん、あなたの許嫁は死んだのです。それから日の照る三叉路に出て、何気なく袖を見たらば、袖のボタンに女の髪の毛が一本まきついています。今も、そのままになって、ほら、これは開かずのアパートでくっついてきた髪かもしれません。僕は今、星占いにあきたりない女が落としていった薄っ毛を吹き飛ばし、太くて黒かったあなたの許嫁の髪を一本かざしています。(それを唇にふれる)そっとの息でハラリと落ちてしまえばいいものを、どうして、口にまとわりつくんだ。
(唐十郎『腰巻おぼろ 妖鯨篇』)
ガマ少年は捕鯨船の見習い砲手で破里夫の同僚だった。破里夫が鯨に引きずられて海の底に消えた後、ガマは形見の櫛と長靴を届けるためにおぼろのアパートを訪ねたのだった。しかし千里眼によって死亡通知が出され、居場所を失ったおぼろは部屋にいなかった。アパートを出たガマは、袖のボタンに女の太い黒髪がまとわりついているのに気づく。もちろん取ろうとしても取れない。ガマにとっておぼろが運命の女だということだ。
またおぼろが見つからずに途方に暮れるガマ少年の前に、広島光演じる老人が現れる。最初はゼベットと名乗った老人はガマに、「ピノッキオ、あたしだよ、ゼベットだよ」「その木の体に神通力を吹き込んでやろうってんだよ、小僧!」と言う。ガマは大魚に呑まれたピノキオで、老人は彼を魚の腹の中から救い出してやる役割を担っているのである。
普通の演劇や小説ではほぼあり得ないことだが、ゼベットは途中でいともたやすくイサリビに名前(存在格)を変える。だが矛盾はない。唐演劇では通常の意味での矛盾は意味を持たないのだ。イサリビ(ゼベット)もまた元捕鯨船の船長で、再び捕鯨に繰り出すための船員を求めていた。イサリビはいっしょに捕鯨船に乗ろうとガマ少年を誘う。しかしおぼろを探し求めるガマ少年が承諾しないので、イサリビはガマ少年といっしょにピノキオの人形劇をしながらしばらく暮らすのである。
『腰巻おぼろ』には追う者と追われる者の関係が頻出する。主人公のおぼろは死んだ恋人・破里夫の面影を追い求めている。ガマ少年はおぼろを探し求め、イサリビ(ゼベット)はピノキオでかつ捕鯨船の砲手ともなるべきガマ少年を渇望している。千里眼はおぼろを我が物にしたい。恋狂いの女や主婦、人魚、文学少女として現れる女たちとおぼろの関係も、追う者と追われる者のそれだろう。最も典型的なのは、サメ肌(大久保鷹)と小判ザメ(染野弘考)、それに朝凪(三浦伸子)・夕凪(渡会久美子)の関係である。
サメ肌はいつもキャリーバックの中に入った小判ザメを引いている。理由はない。小判ザメだからサメ肌は彼を持ち運ばなければならないだけのことである。二人は朝凪と夕凪という名の女を追っている。理由はわからない。追い詰め、殺さなければならないというパッションだけがある。ガマにとっておぼろが運命の女であり、イサリビにとってガマ少年がピノキオであるのと同じ原理である。ただ人間を導き人間を変えてゆくのは、いつだってこういった〝正しい直観〟だけなのだ。理由は常に後になってからわかる。唐演劇にはいつもまず正しい直観が表われ、それに沿って論理を超えたある種の〝真理〟が探求される。
サメ肌は舞台に登場するたびに、「私の上に降る雪はいとしめやかになりました」と中原中也の詩を口ずさむ。追うことが彼の生の抒情そのものだということだ。サメ肌を演じた状況劇場時代からのアングラ俳優・大久保鷹は好演だった。言うまでもなく演劇は脚本家や演出家がお膳立てをして、俳優が主役になって演じる。大久保鷹の周りには確かに六〇年代から七〇年代のアングラ演劇の雰囲気が漂っていた。サメ肌は彼のパッションの源である朝凪・夕凪を殺す。ただひたすらに自らの直観によって行動する唐演劇の登場人物たちは、極端にまで至らなければその歩みを止めることがないのだ。それはおぼろとガマ少年、千里眼の関係も同じである。
おぼろ さあ、こっちを見とくれ。あたしはあるのか、ないのか。
ガマ おぼろさん、あなたほどの方がどうしてそんなことをお悩ややみになるのですか。
おぼろ うん。別にね、あたしも悩んでるわけじゃないんだけどね。只、ちょっと、ね、聞いてね、参考までにと――。さあ、言え!
ガマ いるからあることにはなりません。冷めてしまった恋人がいるからと言って、そこに愛がありますか? 心から愛する相手がありますか? 冷えてしまった手を握って、只、淋しく不安だからというだけで寄りそっている二人に、恋のペアがありますか? 大事なのはいることではない。「ある」ことです。
おぼろ いいぞ、いいぞ! 聞いたか、みんな!
(同)
劇のクライマックスは、「ある」と「いる」ことの問答から始まる。この対立軸も明確な論理としては説明できない。ただおぼろは死亡届けを出され、この世にいない者となってもなお、確かにここに「ある」。それは漠然と世の中に「いる」者たちよりも真実の存在なのだ。千里眼は「皆、耳をふさげ! いるものがあるものの話など聞くことはない」と叫ぶ。いる者=千里眼とある者=ガマ少年の対決が唐突に起こる。
ガマ (千里眼に)この見習いはこの陸に上がって、あんたより見習った。おぼろさん、銛を貸せ、銛を。刃刺しの銛を。この見習いが今、見習いを卒業するんだ!
おぼろ あいよ。うんとやりな。刃刺しのガマちゃん。
千里眼 蠍座だ。亡き者の意志をつぐ蠍座が帰ってきたんだ。今夜は道理で南の空が輝き出したと思ったよ。どこにあるんだ、俺の魚座は!
反対側にもう一つの箪笥が用意される。
千里眼 黄色いクチバシ、よくも叩いたね。おまえが見習いを卒業したというながら、あの箪笥の上に立ってみろ。何十年も赤道を越え、何度もあの暴風雨をくぐり抜けた真の刃刺しと、ガートマンに追いかけられながらビルを渡っていたインチキ刃刺しとの違いを見せてやる。箪笥に乗れと言うのに、この見習いが。
(同)
観念から俗な現実への往還も、唐演劇の特徴である。閉ざされた鯨の腹の中の世界は劇の始まりから箪笥として表現されていた。この箪笥は四角い箱の大道具として具現化され、並べるとパネルの書き割りとなり、向きを変えると部屋になる。また動かすとお祭りの山車のようになるのである。そして箪笥(たち)の移動は舞台から客席に向けられたライトの逆光の中で起こる。そのめまぐるしくも美しい展開は蜷川演劇のものだ。金守珍は箪笥を多面的で可動式の箱として解釈し、それをアングラの代名詞であるテントの中で、華麗な蜷川演劇の演出で自在に動かしてみせたのである。
劇を見る前は、大鶴義丹がガマ少年を演じるのではないかと思っていた。しかしそれは姿形の美しい若い俳優・申大樹が演じ、大鶴の役は横恋慕する怪しげな元捕鯨船長で易教室の主人・千里眼だった。この配役も当たっていた。箪笥の上で大柄でがっしりとした身体を飛び跳ねさせる中年男の大鶴義丹は怪演だった。初演では大鶴の父・唐十郎が演じた役である。その無茶で痛快な演技は確かにアングラ俳優のものだった。
都会のビルの上で捕鯨砲手の腕を磨いたとはいえ、ガマ少年は百戦錬磨の千里眼に敗れる。しかしおぼろが千里眼を討ち取る。殺してみれば、千里眼は綿飴になっている。サメ肌も夕凪を殺した後に朝凪によって殺され、その朝霧を小判サメが殺す。追いかけ、追いかけられていた者たちがクライマックスで殺し合うわけだが、それが彼らの究極の結合であり、新たな物語の始まりである。鯨の腹から出るには「ある」者が普通に存在する「いる」者となり、「いる」者が真理の存在である「ある」者にならなければならない。
イサリビ おーい、ガマ、船が来たぞ、船が。俺の船がきたんだ。もうマゴマゴしちゃいられねえんだ。船が来たんだよ。夢じゃねぇ、刃刺しの船だ!(中略)
おぼろ 夕日がまぶしい、船が大きく揺れる、泡立つ海の彼方に手負いの抹香が見えてきた!
音楽、大きくなると沼の淵より一艘のキャッチャー・ボートが上がってくる。それはまるで、大波から谷間へ、そしてまた大波に乗しあがったように、舳先には黒光りのする捕鯨船が見える。おぼろはへりに銛を立て、その砲にかじりついている
おぼろ あたしを呼んでおくれ、ガマ、あたしを、ここに「ある」あたしを!
イサリビ 刃刺しだ。区役所の抽き出しから飛び出してきた、あんたは刃刺しの伯爵夫人だ!
(同)
『腰巻おぼろ』では、テントと並ぶ新宿梁山泊の代名詞である水とクレーンを使った演出が、最後の瞬間だけ使われた。イサリビの乗ったキャッチャー・ボートが花道から現れ、捕鯨用の大砲を大音響で撃つと、舞台から大量の水が噴き出す。舞台後方の幕が落ちるとそこは海だ。水をかぶりながらおぼろとガマ少年は海へと入ってゆく。黒々とした巨大な鯨の尻尾が海の中から突き出して揺れる。彼らはついに鯨の腹の中から出たのである。
ただこの描写は唐の台本にはない。金守珍が唐の台本を、その意図に沿って大胆に舞台化したのである。アングラテント劇に大劇場の蜷川演出を導入し、唐の台本をわずかだが決定的に違う形で解釈することに金守珍版唐演劇の今があるだろう。なお観劇した日にはたまたま唐十郎氏が客席におられた。大鶴義丹と金守珍にはさまれて挨拶をする唐氏を見ることができたのは幸運だった。(了)
鶴山裕司
■ 金守珍さんの作品 ■
■ 唐十郎さんの作品 ■
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