『特別展 春日大社 千年の至宝』展
於・東京国立博物館
会期=2016/11/16~2017/01/09
入館料=1600円(一般)
カタログ=2400円
大変な展覧会が開かれたものだ。奈良春日大社の第六十次式年造替を記念して、主要な宝物が一般公開された。日本の由緒ある神社では社殿の一部または全部を一定期間ごとに建て替える習わしがあり、伊勢神宮の式年遷宮が有名である。春日大社の式年造替は伊勢神宮と同じ二十年に一度だから、もう千二百年以上続いていることになる。春日大社は国宝三五二点、重要文化財九七一点の宝物を所蔵していて、建物では四棟が国宝に、二七棟の建造物が重要文化財に指定されている。広大な敷地を持つ神社なのだ。そのうち移動できる主な国宝と重要文化財が展示された。
ただ見にいく前からけっこう難しい展覧会だろうなぁという予感はあった。実際に見てやはりこの展覧会は難しいと思った。日本で巨大寺院が建立され始めるのは飛鳥時代頃からで、法隆寺などが有名である。しかし言うまでもなく、日本では仏教よりも神道の方が歴史が古い。だが伊勢神宮や春日大社、熊野本宮大社、出雲大社を始めとして、社伝では創建は古いが考古学的証明などによりはっきり創建年がわかる神社はほとんどない。定期的に建て替えられていることも創建年代がわかりにくい理由である。神社(神道)の性質も影響している。
多くの人が神社は明るく、お寺は暗いというイメージをお持ちだろう。江戸期以降、お寺で葬式を出すようになったことも影響しているが、宗教の質的違いでもある。お寺の中には仏像が並んでいて、蝋燭が灯されお香が焚かれている。しかし神社は何もない空間である。祭壇はあるが基本的にガランとしている。神道の神様は姿形を持たないことがその理由である。神社が建てられた場所自体が聖域なのであり、建物は聖域の象徴だとも言える。ちょっとイスラームのモスクと似ていて、神を荘厳する装飾品は最低限度で良いのである。
『鹿島立神影図』
一幅 絹本着色 南北朝~室町時代 十四~十五世紀 春日大社蔵
春日大社には様々な神様が祀られているが、第一殿の祭神は武甕槌命である。『鹿島立神影図』は命が鹿島を出発なさった時の様子を描いた神影図である。図録解説を引用すると、「(春日大社)社伝によると、武甕槌命は鹿を馬と為し、柿木の枝を鞭として鹿島を発ち、神護景雲元年(七六七)、伊賀国名張郡夏身郷一瀬河で沐浴し、同国薦生山、大和国城上郡安倍山を経て、同二年(七六七)正月九日、同国添上郡三笠山(御蓋山)に垂迹する。このとき、武甕槌命に従ったのが春日社家である辰市家、大東家の祖、中臣時風、秀行であった」ということになる。神影図中央には鹿に乗った武甕槌命が描かれ、右下に中臣時風と秀行が控えている。
それ以前から春日大社エリアでは祭祀が行われていたようだが、春日大社の「古社記」や『日本三代実録』によると、御本殿が建てられたのは武甕槌命到着後の神護景雲二年(七六八年)のことである。ただ八世紀にまで遡るような遺物は残っていない。初期の祭祀は朝廷を中心とした小規模なものだったようだ。また定期的に社を建て替えることからもわかるように、日本の神様は新しく清々とした場所を好まれる。祭祀に使われた道具類はお祀りが終われば棄却されたようだ。平安時代になると春日大社は藤原氏の氏神となり、その信仰が貴族を中心に大きく広がってゆくようになる。それに呼応するように春日大社の宝物も増えてゆく。ただ什器類は平安時代の作もあるが、図像は古くても鎌倉時代くらいが下限のようだ。
『春日宮曼荼羅』
一幅 絹本着色 縦一一〇・八×横六八・七センチ 鎌倉時代 十三世紀 東京国立博物館蔵
『春日宮曼荼羅』
一幅 絹本着色 縦一八三・三×横一〇六・三センチ 鎌倉時代 十三世紀 奈良・南市町自治会蔵
春日大社と聞いて、骨董好きなどが真っ先に思い出すのが『春日宮曼荼羅』だろう。それだけ数が多いのである。図版掲載したのは鎌倉時代の作だが、一番残存数が多いのは室町の作である。春日大社信仰が一般に広がったということだ。今でも春日大社にお参りするのはけっこう大変だが、中世・近世はなおさらだった。京の貴族でも生涯に何度かしか春日社詣ではできなかった。そのため春日大社を絵にして礼拝することが盛んに行われた。『春日宮曼荼羅』は神的イコンということである。
〝曼荼羅〟と名付けられているように、『春日宮曼荼羅』には仏教的な要素が入り込んでいる。曼荼羅は日本では大日如来を中心にその回りに仏様を配置する仏画で、いわば仏教的調和世界を描いている。『春日宮曼荼羅』はそれに倣ったもので、背後の御蓋山、春日山、若草山を含めて春日大社を俯瞰で描いている。春日大社のあるエリア自体が調和した神的世界だという意匠である。最初の図版作品は山と春日大社だけだが、次の作品には上部に仏様が描かれている。本地垂迹の『春日宮曼荼羅』である。
仏教伝来以降、かなり早い段階から神仏習合は行われていた。日本古来の神様には姿形がないので、神は仏の姿を借りてこの世に現れたのだという本地垂迹思想が生まれたのである。春日大社では第一殿が釈迦如来(または不空羂索観音菩薩)、第二殿が薬師如来、第三殿が地蔵菩薩、第四殿が十一面観音、若宮が文殊菩薩で表現される。朝廷はもちろん、藤原摂関家も神と仏の両方に帰依したために生じた思想である。ただ神道の神様に姿形がないのはとても厄介なことである。
仏教は外来思想であり、かなり正確にそのオリジンを辿ることができる。また日本の僧侶が始めた宗派でも経典(理論書)があり、それに沿って仏像などが作られている。仏教は演繹的宗教なのである。しかし神道の神様は姿形がないだけでなく、中核となるような経典もない。祝詞にあるように、ひたすら神に祈りを捧げる。日本の歴史を遡ればいくらでも優れた業績を残した僧侶の名前をあげることができるが、神官はほぼ皆無という理由もそこにある。潔斎してひたすら神に祈りを捧げるのが神道の姿である。日本文化を中心に考えれば神道が表の宗教だが、その実体は負のブラックホールのようなところがある。そのブラックホールに宗教遺物がうずたかく堆積している。
『秋草蒔絵手箱』
一合 木製漆塗 縦二四・五×横三一・五×高一六・四センチ 鎌倉時代 十四世紀 春日大社蔵
『赤糸威大鎧(梅鶯飾)』
一領 兜鉢高一三 前胴丈三五・五センチ 鎌倉時代 十三世紀 春日大社蔵
いずれも鎌倉時代の作だが、『秋草蒔絵手箱』は化粧道具とそれを入れるための箱である。『赤糸威大鎧(梅鶯飾)』は見ての通り、武士が戦場で使う鎧である。多少の修復は施されているだろうが、鎌倉時代の作とは思えないほど状態がいい。理由は簡単で、これらは一度も実際に使用されたことがないからである。神様への奉納品で、神様が使うための御道具である。こういった御道具が春日大社には数多く保管されている。また平安時代から現代に至るまで奉納は続いている。
春日大社に限らないが、神様に奉納された宝物を「神宝」(しんぽう、かんだから)と呼ぶ。社殿を建て替えるのと同様に、神宝もまた一定期間を過ぎると「撤下」、つまり役割を終えて神様の前から下げられる。この撤下された神宝は「古神宝」と呼ばれる。春日大社の宝物はこの古神宝から構成されるのである。撤下された神宝は廃棄されてもおかしくないが、貴顕の厚い信仰を集めた春日大社などでは尋常ではない神宝が奉納された。そのため撤下された後も、各時代の一級品が春日大社で保存されることになったのだった。
春日大社は「平安の正倉院」と呼ばれることもあるが、本家の正倉院とは質が違う。正倉院御物には目録があり、奉納された時期もおおよその伝来もわかる。しかし春日大社の神宝は平安時代だけでも二百年近い間に奉納されたものである。宝物の奉納時期や経緯などの記録もほとんどない。また神宝の種類は様々だ。本地垂迹思想になったように、姿形のない神様は地上では様々な形を取ることができる。それが古神宝の多様さになって表れている。春日大社の神宝は、物だけで完結した価値を導き出すことができないのである。
『舞楽面 新鳥蘇』
印勝作 興福寺伝来 一面 木像、彩色 縦二九・二×幅一五・九×高一一センチ 平安時代 元暦二年(一一八五) 春日大社蔵
春日大社に伝わる舞楽面は、珍しく興福寺から明治七年(一八七四年)に移されたことがわかっている。新鳥蘇は一見してわかるように朝鮮様式の面である。治承四年(一一八〇年)の平重衡らの南都焼討で消失した面を、元暦二年(一一八五年)に古式通りに仏師・印勝が再現したようだ。このような舞楽面が春日大社でも使用されたのだろう。春日大社では保延二年(一一三六年)から春日若宮おん祭で舞楽を奉納している。舞楽が古代朝鮮や中国と密接な関係を持っており、面の意味がその流れの中で考察されなければならないのは言うまでもない。
つまり春日大社の神宝は、いわゆる〝春日大社学〟を前提として一つ一つ見ていかないとその本当の意義がわからないのである。地中から発掘された物ではないが、記録が少ない以上、いつ、誰によって、何の目的で奉納されたのかを、ほとんど考古学調査のように推理と直観で明らかにしなければならない。またその先にはさらに厄介な神道がある。神道は宗教理論としては空虚な求心点という性格だが、その周囲を膨大な神宝が衛星のように取り巻いている。言うまでもなくそれは日本の天皇制と近似した構造である。その意味で春日大社神宝は日本文化の本質につながっている。
鶴山裕司
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