No.072 『世界に挑んだ7年 小野田直武と秋田蘭画』展(後編)
於・サントリー美術館
会期=2016/11/16~2017/01/09
入館料=1300円(一般)
カタログ=2600円
『蓮図』
小野田直武 絹本着色 一幅 江戸時代 十八世紀 神戸市立博物館蔵
『紅蓮図』
佐竹曙山 絹本着色 一幅 江戸時代 十八世紀 秋田市立千秋美術館蔵
直武と秋田藩藩主・佐竹曙山(曙山は雅号で本名は義敦)の『蓮図』である。西洋画とは言えないが、いずれも当時流行していた)南蘋派などの影響を受けた絵である。南蘋派は清人・沈南蘋によって長崎で広まった西洋的写生を取り入れた新たな画風だった。そのため長崎派とも呼ばれる。その画風はまたたく間に広まり、江戸後期の日本画の画家たちはもちろん、浮世絵師などに至るまで多かれ少なかれその影響を受けている。曙山作品は直武の粉本(元絵)を手本に描かれているが、パッと見てわかるように、曙山の腕は画家顔負けといったくらい冴えている。
直武は北家の家臣で君主・義躬にそれなりに重用されたが、江戸出仕後に角館に戻ってからは秋田藩に召し抱えられ、藩主・曙山の側近くに仕えた。曙山の意向が働いたのだろう。曙山は文人大名で、同じくオランダ経由の絵画や博物学などに強い興味を示した大藩・熊本藩の細川重賢らと密に交流した。大名ゆえに気軽に行動できなかった曙山は自らの手足として直武を使い、江戸などで蘭学の情報を集めさせたのだとも言える。直武が秋田藩に仕え始めた安永七年(一七七八年)九月に曙山は『画法綱領・図画理解』をまとめている。一般に流布することはなかったが、日本で初めての西洋画論だと言われる。曙山は直武とは異なり書き物もよくする大名だった。
『松に唐鳥図』
佐竹曙山 絹本着色 一幅 江戸時代 十八世紀 個人蔵
『松に唐鳥図』は曙山の代表作の一つだが、雅印は「Zwaar wit」と「Segotter vol Beminnen」の二つが捺してある。曙山はオランダ語を解さなかったが、和訳させて気に入ったオランダ語の言葉を印にして自作に捺していた。彼がいかに外来紅毛文化に心惹かれていたのかがわかる。また描かれているのは日本には生息していないインコである。曙山が実際に入手していたかどうかは別として、インコのような煌びやかな鳥は当時の蘭画で人気の画題だった。曙山の西洋画の解釈が優れていたことが見て取れる作品でもある。
『松に唐鳥図』は西洋画の遠近法を使っているが、最も目立つのはその明るさである。青い空と海と、あくまで赤いインコをくっきり描くのが曙山の意図だったろう。いわゆる日本画は、煌びやかな障壁画や屏風であろうとどこか重厚だった。戯画は墨画などで表現されて来たとは言えるが、彩色画で軽味を出すのは難しかった。新たに流入した西洋画は写生や遠近法といった技法だけでなく、華やかで軽く、見る人の精神が虚空に抜けるような爽快感を表現する絵のあり方を教えたのである。曙山がそういった軽味に惹かれていたことがよくわかる作品である。
『児童愛犬図』
小野田直武 絹本着色 一幅 江戸時代 十八世紀 個人蔵
主君・曙山と比較すれば直武作品は重厚である。『児童愛犬図』は唐子と洋犬と思われる犬を描いた作品だが、唐子の顔や服だけ洋画化しており、見る者に奇妙な印象を与える。その理由は曙山より直武の方が従来の日本の絵画伝統をよく知っていたからだとも言える。曙山がスコーンと抜けた明るい西洋画に憧れた人だとすれば、直武は先師たちに倣いつつ、いわゆる日本画と西洋画を折衷させようとした人だった。どこか岸田劉生の麗子像を思わせる絵だが、日本画と洋画を意図的に折衷させればこのような作品が出来上がるということである。
直武は曙山の参勤交代に伴って安永七年(一七七八年)に再び江戸に行くが、翌八年(七九年)に秋田藩から謹慎を命じられ、安永九年(八〇)年に三十二歳の若さで没してしまった。今回の展覧会のタイトルになっているように、直武の画家としての活動期は彼が最初に江戸に出た安永二年から、九年に没するまでのわずか七年弱なのである。直武が謹慎を命じられた理由はわかっていない。趣味によって主君に取立られた下級武士なので、政治闘争に巻き込まれたわけではなさそうだ。息子の直林が家を嗣いでいる。また直武を重用した曙山も天明五年(八五年)に亡くなってしまい、秋田蘭画はそれをもって火が消えてしまった。平福百穂が歴史を掘り返すまで、秋田蘭画は人々の記憶から忘れ去られていたのである。
『不忍池図』
小野田直武 絹本着色 一面 江戸時代 十八世紀 秋田県立近代美術館蔵
さて、秋田蘭画のその後の絵画史への影響だが、佐竹曙山という大名を中心とした絵画ブームだったこともあり、ほとんど何もないと言わざるを得ない。熊本藩主・細川重賢の紅毛熱も同様であり、それは当時の貴顕の、ちょっと度を過ぎた趣味への没頭だった。大名たちの高尚な趣味であり、町人の出で浮世絵師でもあった江戸の司馬江漢らの作品の方がポピュラリティーを得て一般に流通し、後世に影響を与えたのである。では秋田蘭画が無意味なあだ花だったかと言えば、そうは言えない。視野を広く持ち、当時の日本と世界全体の流れの中で捉えれば様々な事柄が見えてくる。
秋田蘭画が隆盛した安永年間はいわゆる田沼時代である。田沼意次は賄賂政治を行ったことで悪名高いが、幕府の財政赤字を食い止めるべく重商主義を掲げ、数々の改革を行った。経済が好調の時代には自由な雰囲気が生まれやすい。蘭学の興隆はその一つだが、浮世絵や狂歌などもこの時代に盛んになった。安永に続く天明時代に意次は失脚し、松平定信による寛政の改革が始まる。定信は怜悧な政治家だったが、田沼時代の反動として厳しい綱紀粛正政治を行った。ロシアの南下が露わになった時代だが、蘭学を抑圧し、幕藩体制の根本である朱子学を奨励した。定信の政治は単なる反動ではない。来るべき世界変動に備え、国内の体制を整えようとする意図があった。
定信の寛政時代に続く享和・文化・文政時代が江戸最高の文化爛熟期である。蘭学、漢詩、国学、浮世絵、草紙モノなどが流行し、江戸文化はそのピークに達した。この時代に起こった出来事は、簡略化して言えば意次の開明指向と定信の保守指向の繰り返しだったと言うことができる。江戸の政治家たちは欧米技術や思想の先進性に気づき、現体制を維持したままそれを取り入れようとした。ただ欧米=キリスト教=禁教の邪教と刷り込まれた人々の反発も根強かった。キリスト教とは無縁の蘭学者たちがしばしば罪に問われた理由には、当時の人々の欧米文化への根強い偏見がある。
最近では江戸時代は鎖国ではなかったという議論が盛んだが、それは〝鎖国の定義〟による。江戸後期に蘭学や海外動向情報が流入していた証拠はいくらでも見つけ出すことができる。しかしそれと同じくらい、欧米人や欧米文化を得体の知れない鬼や魑魅魍魎として捉えていた証拠も見つかる。『解体新書』は玄白の友人・桂川甫三を通して大奥に献上されたが、医学書であっても幕府の禁忌に触れる可能性があったからである。良沢が訳者に名前を連ねなかった理由もそういったところにあるかもしれない。江戸の人々の心は欧米文化に対して広く開かれてはいなかった。
この明治維新まで続く江戸後期の矛盾をはらんだ動向を前提とすれば、秋田蘭画はとても面白い文化的混合だった。蘭画の流行は新奇を好む当時の人々の心性から生まれた。正確に欧米絵画の伝統や作品を理解していた者はおらず、見よう見まねでそれを南蘋派や、欧米絵画の影響を受けた中国絵画の手法と折衷させていったのである。その内実は複雑だ。殿様から庶民に至るまで、絵画を学習する際の最初のお手本はほぼ狩野派である。蘭画を学んでも西洋画一辺倒になることはなく、新技法を従来の絵画表現に活かしている。この折衷は、少なくとも日本画においては明治維新後も引き継がれることになる。秋田蘭画はその最初期の成果だと言える。
またこれは言いにくいが、蘭画の流行が秋田という田舎藩にまで及んでいたことは驚きだ。蘭学が長崎や京・大坂、それに江戸という大都市で最も栄えたのは言うまでもない。ただ熊本藩でも蘭学ブームがあったように、それは多かれ少なかれ全国に波及していた。しかしその痕跡は地方では余り残っていない。秋田蘭画の遺品が地元に多く残されたのは、偶然なのか必然だったのかも検証する必要がある。
これもとても言いにくいことだが、戦後の高度経済成長期の末期まで、東北地方は発展の遅れた田舎だった。しかし俗に言う〝東北力〟といったものもこのエリアにはある。新奇を求めるハイカラ指向もその一つである。秋田蘭画の隆盛は秋田人ならではのものなのかもしれない。秋田人の心性を研究する郷土学の面からも、秋田蘭画は貴重な遺産である。
鶴山裕司
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