八月号に掲載されていた『無言館館主インタビュー 窪島誠一郎 戦没画学生が愛した日常と純粋な空間』を読んで、ちょっと泣きそうになってしまった。戦争の惨劇に涙腺が緩んだわけではない。芸術を愛した心優しい青年たちの、つまりは当時の軍国主義的規範から言えば〝文弱の徒〟たちの、女々しくも弱い心を知り尽くし、それを蒐集展示している窪島さんに深く感動したのだった。簡単に言えば身につまされたのである。
無言館は戦没画学生らの作品を収集して展示している私設美術館である。長野県上田市古安曾にある。館主は窪島さんだが、画家の野見山暁治さんも蒐集に尽力した。なお窪島さんは水上勉さんの子供だが、貧困のため幼い頃に養子に出された。戦中の混乱期に水上さんは窪島さんの消息を見失い、再会できたたのは窪島さん三十六歳の時のことである。従軍はしていないが、窪島さんは戦前から戦中の貧困と、戦争の悲惨を肌身で知る人である。
なのに突然、反戦平和の旗手のように祀り上げられ、そのことで講演依頼とかが来るわけです。無言館を運営していく上で、収入としてはありがたいけど、どうしても彼らの絵を反戦の道具にしている、政治利用している、という呵責が起こってくる。僕は知ってるんです。反戦平和を叫びながら死んでいった学生なんて、一人もいないんです。平凡に愛する人を描き、女の乳房を描いた。彼らは本当はその絵を見てもらいたいんです。芸術なんて弱虫じゃないと出来ないんです。弱虫だから焼夷弾の降る中、好きな妻を見つめて描けたんです。それは一方では強い意志でもあるが、やっぱり弱虫なんですよ。敵前逃亡、現実回避。でもそれが芸術の本来の役目なんです。その呵責が未解決のまま二十年経とうとしている。それで僕は「自分は迷っているんです」と本音をしゃべり続けるしかない。また戦争になって、あちこちに無言館が出来るような時代が来ることだけは避けたい。ただ、彼らが愛の証として描き遺した絵が、一足飛びに憲法九条を守れとか安保法案反対とかの道具として利用されたくない。雲の上から彼らは果たしてそれを望んでいるんだろうか。
(『無言館館主インタビュー 窪島誠一郎 戦没画学生が愛した日常と純粋な空間』)
画家の靉光は出征前に、多くの習作作品を自分の手で焼き払った。広島の実家に疎開させていた自信作は原爆投下で失われた。出征間際に東京で描いた二枚の自画像は残り、それが彼の代表作になった。強い意志を漲らせて前を向く男の像である。この絵は戦後の長い間、靉光の反戦思想を表現した作品だと言われてきた。しかしそうではないことがじょじょに明らかになっていった。靉光は手紙で兵隊としてお国のために尽くす覚悟だと書いている。また教育勅語を書写したりもしている。
彼の中で絵を描く情熱と、兵隊にとられることは別だった。まだ自由の雰囲気があった画学生時代、靉光はオキシフルで髪を脱色して金髪にし、好んで奇矯な格好をしていたのだという。今の画学生と変わらない。その彼が兵隊にとられ、家族と日本のために粛々と戦った。自分の絵に厳しい人だったから、わずかに残った習作が今では美術館に収蔵されていると知ったら、「恥ずかしい」と言うかもしれない。戦没学生が政治思想家なら、そこからまとまった思想を導き出せるだろう。しかし画学生の場合、中途で断ち切られた感情は作品の数だけある。
あの当時は絵を描くこと自体が非国民と言われ、眉を顰められることもあった。子供が藝大に入って喜ぶ親なんていなかった。でもこれも全国を歩いて知ったんですが、不思議なことに、死んでいった画学生の周りには必ず彼らが絵を描く時間を守った人がいたんです。自分が農家を継ぐから弟は絵の学校に行かせてやってくれ、と懇願した兄とか、親の反対を押し切って絵を描き続けた弟に、戦場へ絵の具を送り続けたお姉さんとか。僕は、そういう彼らや家族の、絵に対するひたむきな時間と思いを守りたいと思っているのかもしれません。
(同)
創作者の抑え難い情熱は周囲の人を動かすことがある。しかしそれは、周囲の人々に迷惑をかけ時に不幸にしてしまうことでもある。それを重々知りながら、芸術家は「お前のエゴに過ぎないじゃないかと」指弾されてしまうような創作への情熱を捨て去ることができない。世間的に言えばもっと不幸なのは、そんな情熱を傾けても社会で認められ、作家や画家として認知される作家は一握りしかいないことかもしれない。だがそんな苦しみの中にも喜びの共有はあり、見返りを期待しない無償の愛は、芸術家の生が途中で断ち切られても、不思議と次の世代へと受け継がれてゆくものである。窪島さんが守ろうとしておられるのはそういった現世的利益を超越した、愚かで美しくもある人間精神なのかもしれない。
ある人が亡くなると、その瞬間から濃厚な生者の時間が始まる。亡くなったのが芸術家の場合、それをうまく現世利益に結びつけようとする友人や弟子も現れる。それは世の習いだが、現世を離れた死者の精神は、その最も崇高な部分を受け継がなければ意味がない。現世利益はもちろん、現世的諸問題を解決する場合でも、それは生者が自力で果たさなければならないのだ。死者の精神を便利に利用して、その高みを現世にまで引き下げてはならない。無言館には二通りの意味が込められているだろう。死者が物言わないのはもちろんだが、饒舌になれる生者も無言になって、途中で断たれた死者の精神を中空高く仰ぎ見るのである。
Q 〝切れ〟とは何ですか?
A 〝切れ〟は実は二つあるのです。
1 一句完結の切れ
「五七五」の後ろに和歌や短歌、連歌連句の付け句のような「七七」が付かないよう「言い切る」ことです。「五七五で言い切る」「五七五で一句を完結させる」ことが一つ目の切れです。
2 句の中の切れ
一句の中に「歯切れ」を付けることです。それによって「間」や「ヤマ場」「転換」が生まれます。
Q 切れ字とは何ですか?
A 「かな」「けり」など一句完結や間を生み出す言葉を切れ字と言います。「四十八文字いろは皆切れ字なり」(芭蕉)と言うようにあらゆる言葉も切れ字となります。
(特集『あなたの俳句切れています? 格段に上達する〝切れ〟の使い方』より)
窪島さんのインタビューを読んだ後で特集『あなたの俳句切れてます?』を読むと、ちょっと元気になる。俳壇は今日も「けり」「かな」「や」で大騒ぎしてるんだなぁと思う。嫌味ではなく、それが現世の賑わいで、活力というものだ。
前衛俳人の安井浩司さんは酔っぱらった深夜の路上で、「切れ字を気にして俳句が書けるかぁっ!」と叫んだそうだが、名人は危うきに遊ぶのだから仕方がない。だからあまり「四十八文字いろは皆切れ字なり」という芭蕉の言葉を真に受けない方がいい。そんなことができるのはプロを称する俳人でもほとんどいない。
俳人は切れ字の重要性をよく知っている。高濱虚子は「切字はすなはち十七字をして首尾あらしめ中心点あらしむる所以」だと言い、山本健吉は「切れとは季語以上に重いもの」と書き残した。石田波郷は「絶対に切字を入れよ。動詞を節約せよ。さうすれば何か底に響いて来る、玄妙な俳句の力を感じることが出来る」と切れ字の多用を勧め、長谷川櫂は「切れ字とは断崖のようなもの」とアフォリズム風に表現した。いずれも正しい。
ただ切れ字は俳句の全体構造の中で機能する。定型的な切れ字の使い方はあるが、実際にはその崩し方が正念場になってくる。絵の具の使い方と同じで定型技法は教えられるが、プロとなりより高い表現を目指すようになると、定型的用法は崩すための指標になる。
プロの俳人なら問われれば切れ字についていくらでも話すことができるだろう。しかし実作者としては、「切れ字を気にして俳句が書けるかぁっ」のレベルに達しなければならない。崩し用法も含めて無意識的に切れ字を配置するのである。
それには多作が必須になる。倦んで疲れるまで多作を続ければ、俳句を巡る現世的な妄念は吹き飛んでゆくだろう。その高い精神が、芭蕉から現代にまで続く優れた俳人の非人称的で抽象的な作品に、生の鼓動を与え続けている。俳句は人間が生きながら、最も死者の精神の高みに近づくことができる芸術形態かもしれないのである。
岡野隆
■ 窪島誠一郎さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■