偶然なのだろうが、「文學界」九月号には木村紅美と佐藤モニカ氏の、二人の女流作家の作品が並んで掲載されている。ともに一九七〇年代半ば生まれで年齢も近い。木村氏は「風化する女」で文學界新人賞を受賞され、芥川賞や野間文芸新人賞の候補にもなっている。佐藤モニカ氏は佐佐木幸綱氏の「心の花」所属の歌人でもある。
若い女性作家の場合、まあはっきり言えば性的な事柄を題材にした方が文壇受けがいい。男性読者が喜ぶからだが、文壇賞の選考委員はなんやかんや言って男の作家が多いからでもある。ちょっと言い過ぎかもしれないが、多くの男性作家は男との性的接点を介さなければ女性作家の作品を読み解けないところがある。明らかに純文学資質でも、たくさんの女性読者を抱えている女流作家は「売れてるから直木賞でいいんじゃない」になったりする。
男女の性差については生物学的な違いと、社会・文化的に後天的に作られるジェンダーに分類して考えるのが一般的である。ジェンダー理論を使えばいわゆる男らしさ・女らしさは解体可能なのだが、現実世界の具体的な人間関係を描く小説では、女性作家と男性作家の質的な違い(エクリチュールの好み)が露わになりやすい。木村氏と佐藤氏の小説は、その保守性を含めて女流らしい作品である。
自分の顔がぼやけて浮かんだ景色に、輝きわたっていた海のようすを重ねているうち、だんだん、緑が遠ざかった。茶色い倉庫や煤けた看板を掲げたビルディング、信号が増えてくる。うす青くなってきた空気に、ネオンの灯り始めた褪せた灰色の街が広がった。エスカレーターをのぼると、改札の向こうから、ワイシャツとネクタイに黒いスラックス姿の見知らぬ男が手を振ってきた。覚だった。背広を抱え、髪はぴっちり整えている。
「もうひとりは?」
間近で向かいあって訊くと、眼が笑っていない。言いづらそうに声を低めた。
「・・・・・・お父さんのメール、転送したの、読んでない?」
(木村紅美「八月の息子」)
木村氏の「八月の息子」の主人公・杉山泉は二十九歳の女性で、地元のマッサージ店で鍼灸師として働いている。両親と弟と同居の実家暮らしで独立するために貯金に励んでいるが、母はガンの闘病中で父親は足が悪く、望みがかなうかどうかは不透明だ。お盆休みのある日、長井覚が訪ねてくる。大学のシネマ同好会の仲間だった絵菜が結婚するので、関東に住んでいる昔の仲間のお祝いメッセージを撮影してプレゼントするためだった。
撮影を終え喫茶店で話しているうちに、部長ではないが落ち着いているのでリーダーというあだ名で呼ばれていた土谷朋之の話になる。彼は大学三年生の時に突然退学して泉たちの前から消えた。今は海外で骨董品の買い付けの仕事をしていて、八月末に一時帰国するので覚は彼の実家にも撮影に行くと言う。泉はリーダーに憧れていた。覚に教えてもらったアドレスにメールを書いた。リーダーの返事は久しぶりだから泉にも会いたいというものだった。
約束の日に泉は胸ときめかせて出かけた。しかし待ち合わせ場所の宇都宮駅には、覚の姿しかない。代わりにリーダーの父親からメールが届いていた。「息子は急に帰国できなくなった。ご馳走を用意して待っていた自分たち夫婦もガッカリしている。せっかくだから、息子はいないが料理を食べに来てもらえないか」という内容だった。泉と覚は戸惑うが、宇都宮まで来てしまったのだ、このまま引き返すわけにもいかない。二人はリーダーの実家に向かう。
「・・・わたし、シャワーのあと、あの部屋から、むかしリーダーに教わった、エヴリシング・バット・ザ・ガールの曲が流れてくるのを聴いた。それに、ふたりで言い争ってるのも」
「おれは、(中略)ストーンズ好きなら聴くべきだよって、あいつがコピーしてくれたCDと同じアルバムをかけているのに気づいて。・・・・・・あと、嘘をついてまで呼ぶんじゃなかった、って言ってるのを聞いた」
「嘘?」
「博昭さんは、もとはきみが立てた企画? 計画じゃないかって言って、焦ってる感じだった」
(同)
リーダーの父親の博昭は建築士でダンディな初老の男だ。泉と覚を歓待してくれるが最初から酒臭い。母親のミワコは風邪気味だと言って二人の前に姿を現さない。ただ博昭がミワコの部屋に様子を見に行くたびに言い争う声がする。新幹線の時間がなくなり、博昭にすすめられるまま二人は泊まることになる。泉は覚からも、会えなかったリーダーからも針治療を体験してみたいと言われ、道具を持ってきていた。覚の部屋で針治療しながら、二人は狭い家の中で漏れ聞いた夫妻の会話について話す。
「嘘をついてまで呼ぶんじゃなかった」「もとはきみが立てた企画? 計画じゃないか」という博明の言葉は、リーダーがすでに亡くなっていることを示唆している。リーダーからのメールは父親が書いていたらしい。またリーダーから届いたメールはすぐにアドレス変更されてしまい、泉も覚も継続してメールの交換ができない。しかしなぜリーダーは亡くなったのか、夫妻がなぜそれを隠そうとするのかは明らかにされない。「八月の息子」は謎解きのサスペンス小説ではないのである。
みどりの窓口で誘ってきたのが彼なら、夏風邪で熱が出たことにしてついていっただろう。店長に電話し、すでに入っている予約を先延ばしにしてもらい、さらに北へ向かう新幹線に乗り込むふたりの姿を思い描いた。
ベランダの下にタクシーが止まった。チャイムが鳴るかと思いきや、母たちは鍵をあけて入ってきた。玄関の灯りはつけてあった。
「・・・・・・あの子は寝ているかもしれないわね」
案じているつぶやきが聞こえた。時計を見ると、九月まであと二時間を切った。泉は母に、おかえり、を言うために起き上がろうとして、動けなかった。傍らに置いた錆びた小鳥を見つめた。
(同)
泉は宇都宮駅で覚から、「このまま、互いの事情なんか放り出して、ずっと北へ・・・・・・、青函トンネルを抜けて函館辺りまで行かない?」と誘われた。リーダーの実家で針治療している時も、強引ではないが覚が誘ってくる気配があった。覚が泉をひそかに恋していたからではない。性欲ゆえでもない。覚は卒業してからミニシアターに勤めたが倒産してしまい、その後は職を転々としていた。年上のしっかり者の彼女がいて、結婚して彼女の家の婿養子になることを婉曲に求められていた。覚が泉を誘ったのは一種の逃避だ。それが一時の気の迷いに過ぎないとわかるほどには泉は大人である。だが「誘ってきたのが彼なら」「ついていっただろう」というのは本当だろうか。
大学三年生の時に目の前から消えたリーダーを、泉はずっと恋い焦がれていたわけではない。実際、彼女は自分からリーダーに連絡しようとはしてこなかった。だからリーダーに誘われたらついていっただろうというのもまた一種の逃避である。しかし覚のそれとは質が違う。泉はリーダーが現実には不在だからこそ彼を愛し、彼の言う通りに恋の逃避行に旅立つことができる。愛することができる男は彼女にとって大きな存在だが、それは本質的に不在で良い。どっかりと実在して目の前から動かないのは母親だ。泉は闘病中の彼女を置いて、決して家を出たりはしないだろう。
夜アナは叔母の家にやってきた。
「うれしいわね。お赤飯を食べるのは久しぶりなのよ。(中略)」
「突然誘って申し訳なかったわ」
「大丈夫よ。母もお赤飯のお祝い事ならぜひ行くべきだって言うの。(中略)」
「でも、何はともあれ、おめでとう。これからは仲間だわ」
アナは私に向き直ると言った。
「今まではなんだったの」と叔母はグラスを差し出すと言った。
「今までも仲間だけど、そうね、今まで以上に仲間ってところね」
お赤飯は日本のそれと全く変わらなかった。変わらなすぎて驚いた位だった。
「そりゃ、そうよ、この家にはちゃんとタイガーの炊飯器があるんだもの」
「ああ、でも、どうかそのことには触れないで」
「共にお嫁に行き、共にこの家に帰ってきた」とアナは片手を高くあげ、まるで芝居の台詞かなにかのようにふざけて言った。
「そう、それよ。そのことよ」
「いいじゃない。一度でも行ったんだから。私なんて独身生活を謳歌していますから」
(佐藤モニカ「コラソン」)
佐藤モニカ氏の「コラソン」の主人公は中学二年生になろうとする少女で、ブラジルに住んでいる。父母が不仲で、母親が日系三世のブラジル人なのでブラジルの叔母の元に預けられたのだ。一時的だったはずがもう二ヶ月も経っている。両親からの連絡もない。ブラジル単身滞在は佐藤氏の実体験に基づいているのだろうが、この作品を両親の不和で悩む少女の心理を描いた私小説だと言うことはできない。また小説は「バウワーがアイスクリーム屋をやめると言いだしたのは夏だった」で始まるが、その理由を解き明かすための小説でもない。
引用は主人公の初潮をお祝いするシーンである。叔母が赤飯を炊いて友人のアナを誘ってくれたのだった。アナの「今までも仲間だけど、そうね、今まで以上に仲間ってところね」という言葉にあるように、少女は大人の女の仲間入りをしたばかりだ。叔母は少女に「きっとこの先もっと素敵なことがあるから」と言う。大人の女として少女はこれから様々な体験をするだろう。しかしその〝素敵なこと〟を叔母もアナももうよく知っている。叔母は結婚して妊娠したが、子供は死産でその後離婚した。アナは恋多き女のようだが独身のままだ。アイスクリーム屋のバウアーの元妻が突然町に現れるが、彼女はアナの妹のユキエから、バウアーを奪って結婚したのだった。しかし一人子供をもうけて離婚した。バウアーの元妻が町に現れたのは、彼が詐欺事件に巻き込まれていて逮捕されそうだと聞いて、それを忠告しに来たことが明らかになる。
少女を取り巻く女性たちの個人的な幸せと不幸は、当たり前だが男たちとの関係から生じている。しかし女たちの共同体の中で男は常に不在の中心でしかない。小説の最後で少女を「おちびさん」と呼んで可愛がってくれた、レインボーおばさんというあだ名の老女性が死ぬ。レインボー伯母さんは亡くなる直前に少女に詩を書いて渡してくれた。「大切なものを探して/どんなものにも代わりにならない/大切なものを探して」と書かれていた。それを訳しながらアナが「まるでここにいる全員のことみたいじゃない」と言う。「どんなものにも代わりにならない/大切なもの」は確かにある。しかしそれは常に不在だ。その空虚な実質が漏れ出さないように、女たちの濃密で細やかな共同体が周囲に広がっている。
大篠夏彦
■ 木村紅美さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■