【公演情報】
会場 吉祥寺シアター
公演 2016年03月24日~29日
作 平田オリザ
演出 矢内原美邦
出演
石松太一、稲継美保、笠木泉、門田寛生、川上友里、川田希、河村竜也、熊谷祐子、重岡漠、島田曜蔵、立蔵葉子、永井秀樹、沼田星麻、橋本和加子、兵藤公美、細谷貴宏、光瀬指絵、緑川史絵、守美樹、森山貴邦
映像 高橋啓祐
舞台監督 鈴木康郎
照明 南 香織
メインビジュアル off-Nibroll
宣伝美術 石田直久
企画・制作 プリコグ(奥野将徳、河村美帆香、水野恵美)
主催 ミクニヤナイハラプロジェクト
共催 公益財団法人武蔵野文化事業団
助成 芸術文化振興基金
特別協力 急な坂スタジオ
協力 青年団、アマヤドリ
矢内原美邦さんといえば、振付家にしてダンサーで、ニブロールというカンパニーで、いわゆるコンテンポラリー・ダンスの人である。その矢内原氏は、2005年からソロプロジェクトとしてMIKUNI YANAIHARA PROJECTをはじめ、「演劇作品」の創作にも活動を広げてきた。そこでは、単に、言葉や物語によりそうわけでは全くなく、それまでのキャリア(身体性に即した技術)を生かしつつ、よい意味で演劇ともダンスともつかない自在な舞台表現によって、「演劇」という表現領域をおしひろげてきたようにみえる。『前向き!タイモン』(初演2010)による第56回岸田國士戯曲賞の受賞は、そうした評価の一端だとみるべきだろう。実際、その舞台表現は「PROFILE-MIKUNI YANAIHARA PROJECT」において、〈その圧倒的な情報量と運動量で知られる舞台では、劇画的にデフォルメされた自己中心的なキャラクターたちが、言葉と体をダンスするかのごとく高速回転させドライブ感に溢れた魅力が生まれる。〉と紹介されている通りの(最大公約数的な)印象を、まずはもたらすものである。
さて、吉祥寺シアター10周年記念公演として上演された、ミクニヤナイハラプロジェクト『東京ノート』(作:平田オリザ、演出:矢内原美邦)は、20人のパフォーマーが所狭し何もない空間を75分駆け抜けることで、密度の濃い、しかし徹底的に言葉‐身体の表層にこだわり/とどまることで、実ににぎやかに、多層的な現実を一挙に提示した、“可能世界の万華鏡”とでも称すべきはなやかな舞台表現であった。
矢内原美邦演出『東京ノート』は、何といっても飽きない。(平田演出のそれとは異なって)ほとんど座ることのないパフォーマーたちは、それどころか、とまることすら少なく、走りつづけ、喋りつづけ、“静”の印象をもたらす要素を徹底して排していくかのようだ*。してみれば、これは、飽きる暇がないほどの情報量が舞台上でめくるめく展開されていくということでもあれば、ひとまずはその情報量に興味が引っ張られていくものの、いつか飽きるのでは?、という考えが頭をよぎったということでもある。もともと、平田オリザ『東京ノート』とは、〈人の行き交うセミパブリックな場で、何気ない日常会話らしきものが投げ交わされていくだけの作品〉で〈重要なテーマへと展開し得る話題も少なからず散在しているけれど、それらが会話を通じて深められていくことはない〉(拙著『平田オリザ 〈静かな演劇〉という方法』彩流社、2015)。つまり『東京ノート』とは、サスペンスに代表されるような、わかりやすいプロット展開を意図的に排した戯曲なのである。しかし、それでも、この『東京ノート』にには飽きる暇がなく、それはいつしか観客をして、飽きている場合じゃない、暇なんてどこにもない、という体験へと誘いつつ、それでいて、そうした感動が情報量や運動量の勢いだけによるものではないことにも、遅ればせながら気づかされる。
まずもってここにあるのは、幾何学的といってよい形式美である。容易に群舞を想起させるパフォーマーたちの連携を伴った移動(その大半は走っている)、意味の理解が困難なほどの速度と声量を伴った前のめりの台詞(の連鎖)、全員が白いパンツに色違いのシャツという記号化された衣装、舞台装置を排した空間に照明が描き出す分節された空間(境域)……。タイミングがあい、角が揃うことで、そしてそれだけなら形式的というにとどまるだろうものが、しかし、実に豊かなバリエーションを伴って反復されることで、舞台表現はごく物質的な声‐身体を介しながらも、いつしか形式美へと抽象されていく。しかも、ここでいうバリエーションとは、単に動作や発話に関する文法数の多さということではなく、原作『東京ノート』の(意味というよりは)言葉自体に応じた、上演を通じてのリアクションの多さなのだ。だから、その集積は、単なる身体表現をこえて作品となる。
最後に、原作『東京ノート』への矢内原演出のアプローチについてもふれておこう。
第1に、物語の芽は仕掛けながらもそのプロット展開を控え、さまざまなエピソードの軽重を強引に平準化した、きわめてストイックな戯曲からの解放ということが、まずある。例をあげるならば、原作においては断片化されて目立たないように配置されていた戦争(反戦運動)や離婚といった公/私の大事が、目に見え・耳に聞こえる大事として描かれる。具体的には、そうしたエピソードは特定のパフォーマーをショーアップするかたちで演じられ、感情的に見え・聞こえる声‐身体によって過剰に表現される。さらにいえば、矢内原美邦による原作への加筆の多くは、こうしたエピソードに集中している。これは、別言すれば、原作戯曲の構造を無視して、表層的な言葉が担う意味の軽重のみに応じて、表現の振幅を調整していったことの帰結で、(結果的にせよ)これが演出家による戦略的な解釈‐演出かと思われる。(手振りに代表される、絶え間ないパフォーマーたちの動きの大半は、発話中の台詞を、ごくわかりやすいレベルでゼスチャーにしたものである)。
というのも、第2に、冒頭のシーンに集約的にあらわれていた、原作における1人の登場人物/1つのシーンを、複数のパフォーマー/複数のユニットで演じるという手法がとられているからだ。例えば冒頭、美術館で再会した由美と好恵は、それぞれ3人のパフォーマーによって、台詞を分割して演じられ、しかも同一人物役のパフォーマーは同じ色のシャツを着ることで記号化されたキャラクターと化し、3バージョンの会話が1つの舞台で重層的に上演されていく。あるいは終盤、学芸員がフェルメールの技法を秋山家の人々に説明するシーンは、舞台の前景/後景それぞれで2つのユニットによって同時に上演され、しかも、両者は別世界でもなく、会話さえ交わされる。つまりは、共存している。
以上を総じて、第3として、矢内原演出版『東京ノート』が、青年団版『東京ノート』に対する、もう1つの『東京ノート』であることは当然として、矢内原演出版『東京ノート』においては複数の現実が、同一の舞台上で同時に上演されていたことになる。こうした様相を、“可能世界の万華鏡”と呼んでみるならば、台詞も動きも最小に抑えて、日常がリアルに見えるポイントを、文字通りピンポイントにねらうことで画期を成した青年団版『東京ノート』とは対極からのアプローチ──つまりは、台詞も動きも表層に応じて過剰に表現しつつ、現実の複数性を舞台上で並置して上演することで、リアルを現出させようとすること──によって、その実、同じ的をねらった、“静かな演劇”に対する挑戦‐応答と位置づけることができるはずだ。「猛スピードでかけぬけていく。」(チラシ)だけではない、豊かな舞台表現が、そこにはあった。
*「ミクニヤナイハラプロジェクト『東京ノート』矢内原美邦インタビュー」(演劇最強論ing 2016/03/30閲覧)で矢内原は、次のように発言している。
──矢内原さんの演出は「間(ま)」を嫌うと思うのですが、果たして「間」のないオリザ戯曲が成立するんでしょうか?
矢内原 成立はしません。成立なんて目指さないです。青年団のファンは怒るでしょうね。でもいいんです。駆け抜けます。そんなに「間」が欲しけりゃ戯曲を読めばいい!
たぶん私は、「間」が役者の演技手法になるのがイヤなんですね。「できてます」みたいな顔で演じさせたくない。たぶん約20年前の『東京ノート』初演時(1994年)よりも、インターネットの発展もあって、情報がいっぱい入ってくるので流してしまうじゃないですか今は。自分からキャッチしにいかないと情報を得ることができない状態が、今の東京をつくりだしてると思うんですよ。だからまあ、駆け抜けますよ、とにかく。「え、もう終わったの、なんだったの……」ということだけは目指します。青年団の役者は立ってるだけでいい?ということはないです。 走れ、走れ!みたいな気持ちで。逆にうちのカンパニーの役者はただ変な形で立たせたりするかもしれませんけど。
松本和也(2016/03/30)
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