石井さんは「(『父親のような雨に打たれて』が)話題になったことで短歌がすごくおもしろくなった」と発言しておられます。それはそのとおりですが石井さんは受動的に授与される賞を受賞したわけではありません。作家が意志的に応募する新人賞です。そのための作品を書く際に父親の死をテーマにした作品が選考委員の注意を惹くかどうか考えていたのかはやはり問われるところです。平井さんが「虚構してまで創造するからには、ひとりの作家の在りようを賭けることになる。けっして思いつきでやってほしくない。虚構議論の行方とは別に、ひとりの若者が一過性の話題として消耗されてしまう危惧をいまは拭えない。それはこのあとの彼の歩みで決まる。「短歌がすごくおもしろい」かどうかは、そのときになってはじめて分かることなのだろう」と釘を刺しておられるのはそのためです。石井さんのスタンスによっては『父親のような雨に打たれて』は選考委員のベテラン歌人たちをからかった冗談としても受け取ることができるからです。もし倫理的に問題だという批判が投げかけられても石井さんはそれに耐えるほかないと思います。もう少し正確に言えば倫理違反を疑われるような歌を作り新人賞に応募して歌壇デビューしようとした真意が問われます。
石井さんはその真意について、「小説は基本的にフィクションであることを前提として読む。それに対して事実を前提に読もうとする短歌は思い白い」と書いておられます。たとえフィクションを詠んだとしても短歌が現実の体験であるかのように読まれてしまうのは事実です。短歌は俳句よりわずかに十四文字長いだけの詩型ですがその七七に作家の内面が自ずから表現されてしまうのです。ただわずか十四文字ではその背景を説明できない言い切りとなりそれが読者に作家の内面=事実という意味伝達を行います。石井さんの言葉は彼が意識的に事実伝達的な短歌の特徴を反転させた(無化した)ことを示しています。また石井さんは「僕には、言葉に対するある種の諦めのようなものがあって、どれだけ言葉を尽くしても何も伝わらないという感覚があった。(中略)けれども短歌というのは不思議なもので、何をどう詠んだとしても、そこから自分らしきものが伝わってしまう」とも書いておられます。この言葉は石井さんが単に短歌の事実伝達特徴を脱構築した試みから一歩先にお進みになったことを示しているでしょうね。
短歌(和歌)が俳句はもちろん小説(物語)文学の母胎であるのは言うまでもありません。近代に入ってからも短歌界は数々の優れた小説家を生み出しています。伊藤左千夫、長塚節、樋口一葉、岡本かの子らが歌人小説家の代表です。小説・自由詩の世界が彼らのようなビッグネーム小説家を輩出していないことを考えれば短歌がいかに物語(小説)に近接した文学であるかがわかると思います。また石井さんが短歌では「何をどう詠んだとしても、そこから自分らしきものが伝わってしまう」と気づいておられるようにたとえフィクションを詠んでも短歌のそれは小説のようなフィクションには近づきません。フィクションを通した作家の内面が赤裸々に表現されてしまうのです。
そのような歌人の代表に寺山修司がいます。彼は短歌はもちろん舞台芸術でも存命の実在の母親を何度も犯し殺しました。寺山の倫理違反的なフィクションは最初物議をかもし出しやがて人々の首をかしげさせるようになりました。母親殺しを中心とした執拗な寺山のフィクションには思いつきではない実存的な根(逃れがたい作家の主題)があることに人々が気づき始めたのです。この寺山的主題の考察は現在も続いています。
言葉に対する不信感は作家なら誰でも持っているわけでそれは存命の父親を作品で殺した理由にはなりません。厳しいことを言えばネタバレした以上『父親のような雨に打たれて』のような書き方はもう使えないのです。読者は石井作品はフィクションかもしれないという用心を持って読むわけで歌の内容で衝撃を与えることはできません。今後考えられる現実的道筋として歌集刊行を視野に入れるとしても父親殺しの根を明らかにするか短歌的フィクションに対する実践的思考を深めるほかにデビュー作を無駄にせず短歌を書き連ねてゆく道はほとんどないと思います。またそれが『父親のような雨に打たれて』連作が単なる思いつきではないことを証明する強力な説得材料になるでしょうね。
ただ石井さんの作家的意図を離れれば『父親のような雨に打たれて』連作は短歌文学の現在を映し出す面白い試みだと思います。短歌文学の足下をすくうかのようなあからさまなフィクションを持ち込むのはどこかで口語短歌の試みと通底しています。既成の短歌概念を打ち壊そうとする若い作家たちの強い意欲があるということです。そのような若い作家たちの試みを平井さんを始めとする年長の歌人たちは正確に理解し温かい目で見守っています。もしかすると若い歌人たちの新たな試みの大半は泡沫のように消えてゆくかもしれませんがそれが続く限り短歌は現代文学として更新され続けるはずだからです。現在詩の世界で最もビビッドで新しい試みが行われているのは短歌の世界だと言えます。
さてこの話題に関して文を続けるために、ごくごく卑近なエピソードを紹介することをお許し願いたい。私はつい最近歌集を出したのだが、そのためにかなり苦しんだ。出版費用をどこから捻り出せばよいのかという算段に、である。(中略)一般に、歌集出版には、「新車を買える」出費を覚悟しなければならない。カネの話はどうしても下品になってしまうし、いろいろなしがらみのために公に述べることはなかなか難しい。難しいのあるが、そのあたりの話を本稿ではさらにやってみたい。(中略)
現状を座視したままでいると、いずれ短歌のエコシステムは崩壊するだろう。これは、短歌が滅びる、ことを意味しない。短歌そのものは、エコシステムが崩壊しても継続するに違いない。そうではなく、短歌のエコシステムが崩壊、あるいはその前段階として貧弱になると、短歌の新陳代謝が落ち、世代交代が滞り、「歌人」の少数固定化が極まるのだ。つまり短歌がつまらなくなる。わたしはそれを最も恐れている。
そうならないためにいまできることに何があるだろうか? これが本稿の目的であり、私が提案できることは二つある。ひとつは、個人以外に「訴えかける」こと、もうひとつは個人の内面に「訴えかける」こと、である。以下、具体的に説明する。
ひとつめの「訴え」は、歌集出版社への要望である。端的に言えば、歌集出版費用を多くのひとが手の届くレベルまで、できるだけ安くして欲しい、ということである。(中略)
ふたつめの「訴え」は、電子書籍(中略)について、毛嫌いせずにご理解をいただきたい、というものである。
(田中濯一 「短歌をお金持ちの玩具にしないためにいまできること」)
短歌界のリベラリズムを象徴する評論をもう一つ紹介します。歌壇に限らず俳壇・詩壇でも作品集のほとんどが自費出版ですが自費出版を請け負っている版元から出ている雑誌にその内実を書くことができるのは歌壇だけだと言って良いでしょうね。特に自由詩の詩人たちは武士は食わねど高楊枝的な姿勢が強くたとえ高額でも名前の通った版元から詩集を刊行したがりかつ自費だとは言いたがりません。詩人さんたちは対外的に十九世紀的な浮世離れした詩人のイメージを守るためにお金のことなど知らないふりをしているのではないかと思えるほどです。
田中さんの評論は正直で面白いのですが名の通った出版社から自費出版しない限り本一冊出すのに「「新車を買える」出費」は必要ありません。新車と言うからには最低でも百万円前後でしょうか。外注するにせよ自力で版下を作り印刷所と直接交渉すれば並製本三百部で三~四十万円ほどの出費で納まるはずです。印刷費は驚くほど下がっているのです。またちょっと残酷な言い方ですが出版コードを持ち取次と契約している有名出版社から出版しても新人や無名作家の本が書店に並ぶ可能性は今はとても低いと言わざるを得ません。出版点数自体は増加の一途を辿っているのです。ただ書店経由で本の注文はできます。有名出版社のブランドイメージを付加して取次経由で本を配本したいという作家の意志があるならそれなりの大所帯で人件費等の経費がかかる有名出版社の自費出版額が高くなるのは覚悟しなければなりません。相手のあることですからこの現状はそう簡単に変えられないと思います。費用が気になるなら自力で自費出版システムを作るのが一番確実です。
電子書籍ですが現在はまだ過渡期です。電子書籍を読むためのプラットホームや課金・著作権保護のセキュリティシステムも現状では統一されているとは言い難い状態です。多くの詩人は電子書籍自体を毛嫌いしているわけではなく読むための前段階として時間と労力をかけてプラットホームなどを用意しなければならない煩雑さを嫌っているのが本当のところだと思います。田中さんはよくおわかりだと思いますので言わずもがなのことですが作家は自分の本を読者や先輩作家の皆さんに読んでいただくわけです。読むための労力まで読者に強いることはできません。電子書籍は最近になって登場した出版システムであり大多数の人がどのデバイスからでも簡単に読めるようになるまで紙媒体の出版が主流であり続けると思います。
また電子書籍はプラットホーム整備にかなりのお金がかかります。市場でマジョリティを得るためのプロモーションを含めれば相当額になるでしょうね。電子書籍出版が安い費用で済むようになるには初期投資の回収が必要です。つまり出版市場のかなりのパーセンテージが電子書籍に移行しなければ難しい。それには最初から電子出版で刊行されベストセラーになるような本が必要でしょうね。そういった起爆剤があって初めてプラットホーム統一などの問題は前進すると思います。ただそのような作家は恐らく紙の本であっても版元から刊行できる優秀な作家であり単に電子出版の方が安いから本を出すわけではないと思います。出版界全体の変化を見越した戦略を持ってコトに取りかかるはずです。そんな仕掛けを打てるのは恐らく商業出版社になる可能性が高いと思います。
さらにもし電子書籍出版が紙媒体より遙かに安い費用で済むとなれば多くの作家が電子出版で自著を自費出版するようになると思います。ただそれが「短歌の新陳代謝が落ち、世代交代が滞り、「歌人」の少数固定化が極まるのだ。つまり短歌がつまらなくなる」という田中さんの危惧を払拭することになるとは思えません。当然のことですが思いつきで気軽に電子書籍を出す作家も大量に出現するはずです。いわゆる粗製濫造になる可能性もあるわけです。また有名作家が電子出版に移行すれば当然商業電子出版と自費電子出版の区分が誰の目にも明らかになるシステムが生まれると思います。電子出版になっても商業出版と自費出版とのコストや訴求力の差は残るでしょうね。自費電子出版書籍が溢れることは新たな問題を引き起こすリスクをはらんでいます。
現状ではある程度のお金をかけて作品集を刊行するのは作家の覚悟の表れでもあります。紙の本を出すのは手軽ではないからこそ作家の創作への強い決意を読者に伝える役割を担っている面があります。それが変わってゆくにはまだしばらく時間が必要でしょうね。またそれには個人の努力を超えた社会全体の変化を待たなければなりません。詩人たちが経済的に苦しい思いをしているのは短歌・俳句・自由詩でも同じです。ただ歌壇は非常にリベラルです。そのリベラルさを意識的に活用してゆくことが歌壇だけでなく俳壇や詩壇をも変えてゆく原動力になるのではないかと思います。議論の糧になるという意味でも田中さんの評論はとても有意義でした。
高嶋秋穂