マッサン
NHK総合
月~土 8:00~8:15
視聴率で連戦連勝(と言っても、誰と戦っているのか?)の NHK 朝の連ドラで、初の外国人ヒロイン。最近は見かけなくなった激しい嫁いびりに耐え、まるでダメ夫がウイスキー造りに成功するまでを支える。主題歌は「プロジェクトX」を思い起こさせる中島みゆき。
「カーネーション」や「あまちゃん」、「ごちそうさん」、「花子とアン」など、そしてこの「マッサン」と、このところの連ドラの高視聴率を見て思うのは、日本という国の広さというか、人びとの嗜好のバラエティであったり、そのそれぞれの層の厚みであったりする。互いの嗜好は理解できなくても、それは確かに豊かさではあるのだ。その多様な豊かさを目の当たりにするようになったのは、時代だと思う。
「マッサン」は、要は一昔前の典型的な朝の連ドラで、ただヒロインが外国人であることでそれを相対化してみせたもの、とまとめられる。すなわちフツーの朝の連ドラをフツーに楽しみたいという層が豊かにある、ということを示している。もちろん、誰しも時代と無縁ではいられない。ヒロインを外国人にするという置き換えは、その典型に距離を与えるという意味で、視聴者にも制作者にも必要だったろう。
そのような「マッサン」や「ごちそうさん」の視聴者と「あまちゃん」の視聴者が、ある程度は重なっているのは当然だとしても、それを評価する中心の層が重なっているとは思えない。少なくとも「あまちゃん」に興奮をおぼえた層は、「マッサン」に高揚することはないだろう。
それでも、それらはすべて朝の連ドラの受容層として、一見すると同じ集団であるかのように映る。こういう光景は、最近よく目にする。それはインターネットのホームページを訪れる閲覧者の動向を示すものと、とてもよく似ているではないか。ページビューとユニークとの差異として、それは最近、意識されるようになった。
つまりは、「典型的な朝の連ドラを欠かさずに観る、典型的な視聴者」といったものはイメージに過ぎず、誰も自身がそういった範疇に加わるとは思っていない。ただGoogleや Amazon がしているように、自身の嗜好が身ぐるみ剥がされ、何らかのグループに属すると判断されることには寛容、もしくは諦めの境地でいる。典型が存在せず、誰もがユニークであるのに、トータルとしては “ 数字 ” として把握可能なのだ。
おそらくは優れた脚本を得たために成功した、「カーネーション」の視聴者をごく一般的なドラマ受容層とし、またテレビドラマを中心とするテレビ文化と地方のカルチャーを脱構築した「あまちゃん」を最右翼として、最左翼たる従来の朝の連ドラ典型へとブレながら接近しているのだ。受容層を示す円はそういう道筋で、移動する台風の天気図のごとく、日本の視聴人口をカバーしているはずだ。
そしてこの “ ブレ ” とは、現代性によって相対化の意思がはたらくところに起きる現象だ。最左翼に接近するのは、そこに大きなマーケットがあると見込むからなわけだが、このマーケット自体、多くのメンバーが出て行き、また入ってくる。それはしかし、巨視的な見方でも微視的な感覚でも、ひどく健康的なことかもしれない。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■