MBS/TBS
MBS日曜 深夜0:50~ / TBS火曜 深夜1:28~
【出演】
佐藤二朗、白石麻衣、山田孝之ほか
【原作】
吉田貴司『やれたかも委員会』
80年代〜のノリなのか、とタイトルを見るなり思うが、どうも違うようだ。ポイントは時制にある。ホイチョイ・プロダクション以下の業界ノリはインサイダー崇拝の価値観に基づいていて、旧態然としたヒエラルキー構造だった、といえる。もちろんそこにはかつての東大や役所を頂点とするヒエラルキーの相対化、学歴がなくてもギョーカイ人エライのバブルがあった。
それはある意味、欧米への憧れの形を変えたものに過ぎなかったと思う。とんねるずの『雨の西麻布』にあるように、ギョーカイ人の大半は薄給であり、「今日も鮭弁当」だったのだが、より問題なのは洋風の器に盛られた菜飯がまさしく西麻布界隈で呆れるほどの高額で供されていたことだ。東京の自宅で食べられる人たちは決して納得しないだろう。
すなわち格差社会の端緒は、このときに始まっていたのではないか。それが見渡せる今、幻想はほぼ潰えたと言っていい。オーベー化を相対化すると同時に、ギョーカイノリの貧困も周知された。そしてもちろん、この貧困をもたらしているものは見掛け倒しの経済事情だけではなく、バブルの最中ですら、だからこその「心なさ」からもたらされていた。
むしろ誰もがあえて心ないふうに振る舞おうとしていた時代だ。それの何がかっこよかったのか、今となってはわからないが、そのとき異を唱えることは紛れもなくかっこ悪かった。それはある意味で、わかりきったことだったからかもしれない。それが実はわかっていなかったような輩にまで居場所を与えたという意味で、やはり豊かさを誇示した時代だった。
『トーキョーいい店やれる店』を血眼で探すのは、豊かである時代に取り残されまいとする貧しさだったのだが、かつての一瞬を反芻して、あのとき「やれたかも」と悶々とするのは貧しいのではなくて、滑稽である。貧しくはないのだから、その滑稽さに批判は含まれていない。反芻する過去があるのは、ストックがあるということで、豊かさでもある。
少なくとも男たち(たいていは男たちだ)は、やれたかもしれない一瞬を抱え、反芻しながら一生を終えることができる。滑稽であっても幸せである。しかもその僥倖が自分に許されるものかどうか、自問自答する自省心まであるのだ。だからそれを委員会の審議にかけようとする。いじましくもフェアであろうとする姿勢は、共感を呼ぶではないか。
心あることを中心に据える時代は、不況だと言われている。一方の好景気とは大量の鰯が押し寄せて、誰もが他人に遅れまいと夢中で網を張り、獲物を漁る時代である。足りないものを得ようとするのは、貧しさの一種ではある。大漁が望めない不況時は、すでに得たものに向き合うしかない。しかし本当に得たものなのか、調べるのは資産管理だ。
現況は好景気なのか不況なのか、よくわからない。格差が広がっているからだ。社会経済的には当然、憂うべきことである。内面的には格差というより多様性として現れるだろう。皆が皆、自身の赴くべきところへ向かう。あのときあれはどうだったのか、と悶々とする自由はあり、たとえ「やれなかった」という判定でも、与えてくれる存在は夢かもしれない。
田山了一
■ 原作の吉田貴司さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■