ワールドビジネスサテライト
テレビ東京
月~金 夜11時から11時58分
数年前、電車の中で大学生とおぼしき若い男の子が「ほら東京12チャンネルとかさ、あんまし誰も観てないようなのをさ」と、友達に話しているのを聞いた。君は東京12チャンネルを観ずに、何を観ているのか、と問いただしたくなったが、もちろんそんなことはしない。体育学部の学生かもしれないし、文学部の学生かもしれないからだ。体育学部ならバラエティを、文学部ならテレビドラマを観ているというのも偏見かもしれないが。
東京12チャンネルもバラエティや情報ドラマでいまや飛ぶ鳥を落とす勢いだから、そんな会話を聞いたのは、きっと思っているより昔のことだったろう。確かに以前は、経済や株価は大人の心配することで、若いうちはヒマにまかせた遊びやエンタメにうつつを抜かすというのが普通だった。エンタメ番組も若者をターゲットとした。ただいつの頃からか、少しずつ変化してきた気がする。
すなわちマスのエンタメというものが成立しにくくなった。そして興味を惹かれるということがどういうことか、それぞれのインタレストを満たすものを追いかけていくだけで精一杯になっている。理由は単純な情報爆発だ。あまりに大量の情報が流れ込んできて、優先順位を付けざるを得ない。文字通りインタレストにしたがうことになる。時間とともにインタレストが損なわれる可能性があるものから、だ。
逆にすべての事象が誰かのインタレストの対象になり得る、という視点も措定されるようになった。つまりすべての事象がエンタメになり得るのだ。それは誰かのインタレスト、すなわちビジネスになり得る、ということと等価だ。自分のビジネスほど面白いものはない。インタレストを集めるゲームなのだから、どんなリアルゲームよりもリアルでエキサイティングなのだ。
遡って考えれば、この視点は80年代の『なんとなくクリスタル』以降に芽生えたようだ。従来のありふれた物語軸を「消費」の視点から照り返すことで見えてくるものがあった。それは我々が無意識のうちに仕掛けられる側に落とし込まれていることを認識させ、同時にたとえば組織の一員として、落とし込む側に加担しているということだ。この二項対立は、資本家と労働者という対立項とは異なる。
消費者は仕掛けられる側であると同時に、その動向は仕掛ける側を支配する。その運動が経済だとすれば、それは力関係とその逆転のドラマであり、金銭は象徴的なものでしかない。ならば経済は社会の多くの、ほとんどの事象をそれなりのドラマで読むことを許す。ワールドビジネスサテライトがエンタメとして観られる、少なくともそれに異和をおぼえないというのはそういうことだ。
我々の興味は分散化し、統一された価値観を求めていない、というのは一面では正しく、一面では間違っている。我々は自身の価値を追求する初っ端で統一の価値観に絡めとられることを拒否し、またそれが許される時代に生きている。プラットフォームの豊かさが与えられているからだし、その豊かさは経済的価値と呼応しつつ、それそのものではない。そのずれが多様性を生んでいる。
とはいえ最終段階において、あるいはそこまでのどこかの段階において、経済的価値という統一プラットフォームでの確認、振り返りは必ず起こる。ワールドビジネスサテライトが前提としている経済的価値は、それが最終的な目的として設定されているのではないが、誰もが通らねばならない共通言語に翻訳する手続きとして提示されているようだ。個々の価値観に踏み込まないぶん、知的な情報としての価値は上がる。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■