出入禁止の女~事件記者クロガネ~
テレビ朝日
木曜 19:58~
観月ありさが主演である。観月ありさというと、いつも思い出す「場所」がある。六本木のキャンティで、若い頃の加賀まりこも遊んでいたという。かつての最もイケてるイタリアン・レストラン、伝説の場所だ。それも赤白のチェックのテーブルクロスが最先端だった時代と聞けば、レトロなどと言ってはいけない、文字通りのオシャレである。
で、なんで観月ありさでキャンティを思い出すのかというと、少女モデルであった彼女がキャンティにちょろちょろしていて、とても可愛らしいので加賀まりこが何とか言った、というエピソードをどこかで見たような気がしているからだ。まあ、定かではないのだが。
その定かでもないエピソードをなんでわざわざ思い出したり、書いたりするのかは、もちろんそれが別にキャンティでなくてもいいからで、さらに言えば加賀まりこでなくても、観月ありさでなくてもいい。ただ、特権的な「場所」というものがかつては実在していた、という感じだけが印象に残ったのだ。
それは今もあるだろうか。キャンティという店がまだ営業しているか、ということではない。六本木そのものにも、最早ちょっぴり近づきがたいようなトンがった感は消えて、なんか田舎から出てきて、手っ取り早い成功をデキ心で夢見てる若いコたちがタムロしてる、というイメージである。ただタムロしてるだけの渋谷に対して、ガンバってるという特権意識はあるのかもしれないが。
特定の場所の持つ特権性に郷愁を感じるようになったのは、まさに時代の為せるわざということだろう。六本木やキャンティといったリアル・スペースだけではない。たとえば文壇とか詩壇とか、政界とかに対する幻想も日々、失われつつあるのではないか。そこは渋谷同様、あるクラスタの人々がタムロしているに過ぎない場だ、と。それはよいことなのか、ある種の不幸なのか、わからないけれど。
観月ありさはもちろん素晴らしいスタイルで、たまたま六本木の街角に立っていたりすると(事務所があるのかもしれない)、特権的でも特権性でも、ましてや特権意識でもなく、特権そのものという感じがする。そういう彼女を持ってきて「出入禁止」とするとは、それはいったいどんな場なのだろう、とまず思う。
ドラマの筋立てとしては単に、しつこくて怖いもの知らずの女事件記者があちこちで組織(= 場)の利害に抵触し、出入禁止(デキン)になる、というものだ。そして当然のことながら、ここではデキンを喰らう、ということが特権なのである。それは特権に憧れたり、その特権性を無条件に信じたりすることへの異論であり、幻想の破壊者となることである。
しかしそれはごくテレビ的な、そう破壊力を感じるわけでもない物語になっているわけである。そして観月ありさはテレビにおいて、その尋常ならざる特権そのものであるスタイルよさ、たたずまいを遺憾なく発揮する、というわけでもない。彼女の神々しさは、テレビというメディアを介すると、なんだか押し出しのよい、ちょっと骨太な色気のない女にしか見えないと感じてしまう瞬間もある。それでフツーに、デキンになった女に扮している、ということなのだろうか。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■