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アメリカFXチャンネル制作
ジョエル&イーサンのコーエン兄弟監督作品『ファーゴ』は、美男美女のスーパーマン的主人公が大活躍するわけでも、派手なカーチェイスや銃撃戦があるわけでもないのだが、実に奇妙なテイストの作品で大ヒットした。その大きな要因の一つが雪。舞台はアメリカ中西部のミネソタ州。事件は冬に起こるので、映画は冒頭から最後まで雪景色だった。この雪が物語の冷たさを表象していた。カポーティの『冷血(In Cold Blood)』に通じるような殺伐としたアメリカ社会の表象と言えましょうか。
ただ大都会ではなく、アメリカではダサくて保守的というイメージがあるミネソタの田舎町を舞台にしているのにはわけがある。身勝手な人間の暴力的犯罪に抗うアメリカの倫理を表現しやすいのである。雪はアメリカ人が心の奥に秘めている純白な理想(倫理)の表象でもある。
映画が大ヒットし、暗い暴力と純白の雪といった対比が魅力的だったせいか、その後コーエン兄弟制作総指揮によるテレビドラマシリーズが作られた。人気シリーズでシーズン5まで続いている。『ファーゴ』の世界観が魅力的なので全シリーズ見ているが、最新作のシーズン5は傑作だった。
主人公ドロシー(ジュノー・テンプル)
映画版では冒頭に「これは実話である」「生存者の希望で人名は変えてあるが、死者への敬意を込めその他は忠実に描いた」というテロップが流れる。ドラマでも同じだが、これは嘘っぱちである。ただテレビシリーズではなんらかの形でオリジナル映画の設定が引用されている。シーズン5でも舞台はミネソタ、季節は冬、誘拐と殺人が起こる。ただしテーマは映画とは大きく異なる。
シーズン5の主人公は専業主婦のドロシー。小柄で痩せた女性だ。娘のスコッティと中等学校の秋祭り実行委員会に出席していた時に、理由はわからないがPTAの親たちの間で乱闘が始まった。ドロシーは娘を守りながら会場を出ようとするが、近づいて来た学校の先生や警備員、警官までも護身用のテーザー銃(電気ショック銃)で失神させてしまう。ドロシーは「条件反射でつい」と言いわけするが、暴行罪で逮捕される。
ドロシーが暴力に過敏に反応してしまったのには理由がある。彼女は過去に隣のノースダコタ州で、保安官で農場主のロイに無理矢理結婚させられ虐待を受けていた。ロイは選挙で選ばれた政府の保安官だが、独自の法を作り、専制君主として自治体を支配している厄介な男である。アメリカではカルト宗教などで似たようなケースがあり事件になっている。ドロシーは二番目の妻だが前妻リンダはロイに殺された。
ドロシーは十年前にロイの農場を逃げ出し、優しく気の弱い夫ウェインと結婚してスコッティをもうけた。が、逮捕されたことで顔写真と指紋がデータベースに登録され、ロイに居場所を知られてしまう。ドロシーに執着するロイは連れ戻そうとする。しかし彼女は三度にわたってロイが差し向けた刺客を撃退する。ドロシーはロイから逃れる際に様々な護身術を身に付けていたのだ。ただ彼女は誘拐され襲撃されてもかたくなにその理由を話そうとしない。誰にも過去を知られずに、今の平凡な生活を守りたいのである。
夫ウェインの母親は大金持ちの、冷たく気の強い実業家のロレインだった。前々からドロシーのことが気に入らなかった彼女は、ドロシーの秘密を暴き彼女を追い出そうとする。しかしドロシーを連れ戻すために直接談判にやって来たロイと話すうちにロレインの心が変わる。
ロイ(ジョン・ハム)
ロイは「妻は夫の所有物だ。聖書にそう書いてある。あなたの息子は俺の妻を奪った泥棒だ」と言う。ロレインは「正直なところ、ドロシーをすぐにでもあなたの元に送り返したいけど、十年失踪していれば法的に結婚は無効になる。それに息子はドロシーを愛していて、かわいい孫の母親でもある。だから今は彼女はわたしの息子の所有物よ。手を引いてくれるなら小切手を切るわ」と言ってロイを追い返す。
ロレインは女を見下し妻や恋人を所有物のように扱う男に我慢がならない。ドメスティックバイオレンスが日本より遙かに深刻なアメリカのフェミニストである。実際ドメスティックバイオレンスはこのドラマの大きなテーマである。ドラマの最後に「家庭内暴力でお悩みの方は警察や専門機関に相談してください」というテロップが流れたりする。
ドロシーはロイに捕まり農場に監禁されるが、ロレインが金と権力を駆使してドロシー誘拐と襲撃事件を追っていた警察や、以前から連邦法違反でロイをマークしていたFBIを動かして救い出す。ロレインは刑務所に収監されたロイに面会に行く。ロレインは債権回収業者だが、借金を抱えた囚人を救済する私的ファンドを設立したと言う。囚人たちを助ける代わりにロイを標的にするようし向けたと示唆する。「俺に死ねと言うのか」と言ったロイに、ロレインは「あなたにはずっと生きていて欲しいわ。あなたの妻たちが味わった恥辱と恐怖を味わわせてあげたいの」と答える。このドラマのドメスティックバイオレンスのテーマは、ロレインによる勧善懲悪的シーンで回収されている。
ロレイン(ジェニファー・ジェイソン・リー)
ただそれでは『ファーゴ』シリーズの名に値しない。このドラマで最も〝ファーゴ的〟役回りを担っているのはロイに雇われた犯罪者、ウーラ・ムーンクである。ムーンクはロイの依頼で仲間とドロシーを誘拐するが、ドロシーを取り逃がしただけでなく仲間を殺され自分も片耳を失ってしまう。普通の主婦で簡単な仕事だと聞いていたのに「彼女は獰猛な虎だ」と言う。ムーンクはロイとはまた違う執着をドロシーに抱く。FBIとの銃撃戦になったロイの農場に現れ、「檻の中の虎と戦うのはフェアじゃない」と言ってドロシーを助けてくれたりする。
事件がすべて解決してドロシーが娘のスコッティと買い物から家に帰ると、夫のウェインが「お客さんだよ」と言う。見るとムーンクがリビングのソファに座っている。ムーンクは「今すぐ俺たちの戦いにケリをつけよう」と言う。ロイの依頼を遂行するためではなく、自分を負かしたドロシーと戦い決着をつけたいのだ。しかしドロシーは取り合わない。「あなたが何をしに来たのか知らないけど、明日もスコッティの学校があるし、これから夕食だから、日を改めるか夕食のお手伝いをするのか決めてちょうだい」と言う。冷酷な殺し屋であるムーンクが大暴れするのかと思いきや、大人しく手を洗って親子三人の夕食作りを手伝ってしまう。
夕食作りを手伝いながら、ムーンクはなぜ自分がドロシーと戦わなければならないのか説明しようとする。が、ドロシーに反論され、おしゃべりなウェインに話しを混ぜっ返され、スコッティにも邪魔されて果たせない。そのまま親子三人と夕食の食卓を囲むことになる。
夕食のテーブルで、ムーンクは自分は「罪食い人(sin-eater)」なのだと言う。中世のウエールズでは死んだばかりの人の前で食事をして、その人の罪を引き受けるカトリックの秘儀が行われていた。ムーンクは罪食い人として罪を食って以来五百年間、眠れないし死ぬこともできない。「罪の味は苦かった」と言う。
ドロシーは「わかるわ。わたしもそうだったもの。でも罪を背負ったと思い込まされているだけよ。特効薬があるの。愛情と喜びがたっぷり詰まった食べものを食べることよ。そしたらあなたは許されるわ」と言ってみんなで作ったビスケットを手渡す。
ドロシーにムーンクを許す(癒す)力があるのは、彼女がある種の原始人だからである。ドロシーはロイと戦うがそれは夫と娘のいる小さな家庭を守りたいという動物的本能からである。それは人間の原罪を背負ったムーンクとどこかで通じる。ムーンクは恐る恐るビスケットを手にする。そして一口食べ、それまでしかめっ面だったムーンクが笑うところでドラマは終わる。
ウーラ・ムーンク(サム・スプルウェル)
アメリカのドラマや映画の三大要素は「金」と「暴力」と「愛」である。三大要素というよりほとんど三位一体のテーマだ。人々は金儲けに熱中し、その反対に金がないとぼやく。切羽詰まると暴力で問題を解決しようとする。それが痛快なアクションドラマや映画になるわけだが、私的なものであれ公権力によるものであれ、暴力よる解決が許されるのは上位審級に愛が措定されているからである。家族愛、隣人愛、祖国愛などのために金と暴力が使われる。
金と暴力と愛が三位一体になるのは、アメリカが文字通りの自由の国だからである。人間が生まれつき自由でそれを行使する権利があるのなら、法律や不文律的倫理は時に自由の束縛となり権利の侵害になる。常識が通用しないアメリカの裁判事例は事欠かない。ただどこまでも自由な人間を制御し支配するための現実的手段はある。金と暴力である。そういった現実の殺伐を越えたところに愛がある。愛は抽象理念だがそれを見失えばアメリカは本当にメチャクチャになる。
『ファーゴ5』はきっちりこの三位一体のテーマに沿っている。ロイが表象するのは暴力で、ロレインは金力を表象する。ロイの暴力はロレインの金力で罰せられるが、それはアメリカ的必要悪と必要悪の戦いだ。アメリカの超現実主義は社会の本質が金と暴力にあることを隠さない。人間社会は金を持った権力者か暴力で支配されているという露骨なまでの現実認識がある。戦えば金か暴力のどちらかが勝つ。
主人公のドロシーが表象するのは言うまでもなく愛である。彼女が最後に対決するのは物語の元凶ロイではない。人間の原罪を背負ったムーンクである。ドラマの主題だったドメスティックバイオレンスを巡る暴力と金力の戦いが、ほとんどおとぎ話のような人間の原罪とその許しという審級に飛躍している。ただこの飛躍には説得力がある。厳しい現実世界では愛は一過性のものになりやすい。しかし純白の雪に囲まれたファーゴ世界の愛は純抽象である。
アメリカにも純文学がある。日本の詩と同じように読者はとても少ない。そして日本の純文学と同じような私小説が多い。その内容は陽気で明るいアメリカ人のパブリックイメージとは正反対の暗いものである。日本の私小説より暗いかもしれない。ただ書き方がまったく違う。内面描写より外面描写の方が重要だ。どこに住んでいてどのスーパーで買い物をして、何を着ているのかで主人公の内面が表現されてしまう。徹底した物質文明による外面描写が人間の内面描写になっていることが多い。
日本人はアメリカ的物質文明に染まりきっている。が、アメリカ文化は徹底的な異和であり巨大なカウンターカルチャーだ。『ファーゴ5』のようなエンタメの皮を被った奇妙なテレビドラマを見てもそれはわかる。
鶴山裕司
(2024 / 01 /27 10枚)
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