ドラマを支配する究極の神は、ウッディ・アレンが言うように脚本家で、その神の拠りどころとして原作があるとしたら、原作こそがドラマを生む女神である。そして今回の原作は、軽いドラマのものとしてはかなりイケてると思う。軽かろうが重かろうが、書籍がイケてるのは思想があるからだ。軽いなりの思想でも、いや軽そうなゆえに存外ラディカルな視点が示されていることがある。
この原作の思想は、「事件が起きる前に解決してしまうミステリー」である。そう言われれば、ミステリー小説ではいつも事件が起きる。なにしろいつまでも事件が起きない、すなわちいつまでも人が死なない、ブンガク的な前振りの長いミステリーは、編集者に怒られるのだ。ストップウォッチ片手の鬼コーチよろしく、殺人が起きるまでの行数(ページ数ではない)を数えてたりするのだ。
そうすると殺人が起きない、最後までおそらく起きない小説は、編集者のストップウォッチを持つ手を震えさせることになる。それもこれも殺人事件が起きてから犯人を突き止めるべくやってくるはずの探偵がすでにそこにいるからである。だから事件が起きない。探偵が邪魔をしているのだ。すなわち『探偵が早すぎる』。このタイトルは、編集者の言うべき言葉なのだと今、気がついた。
しかしミステリーの醍醐味は、犯人探しとトリックに二分され、このうち犯人があらかじめわかっているものを倒叙型という。これはとりわけ追い詰められる犯人の内面を描くことになり、エンタテインメントとしても深味が加わる手法で、たぶん最初はこれもコペルニクス的転回だったろう。犯人探しの謎があらかじめ解かれているミステリーなんて、あり得るのか、と。
それを可能にしたのが、もう一つの要素であるトリックへの重心の踏み替えである。倒叙型も進化すれば犯人を中心とした心理小説となり、ミステリーというよりクライムノベル、サスペンスとなっていく。しかし倒叙型の本来の典型は、素晴らしいトリックを作り出す犯人の頭脳と心理に寄り添うものだった。あの『刑事コロンボ』の最良の時代のシリーズがそうだったように。
そしてその倒叙型をさらに形式的に進化、いやミステリーの定義そのものを脱構築したのが『探偵が早すぎる』というコンセプトだ。殺人事件が起きるのがミステリー、という定義から、トリックが開陳されていればミステリー、にすり替えてしまった。事件が起きなければ小説は締まらないはずなのだが、実際に我々が納得するのは、犯人の打ちひしがれた姿に過ぎなかったのかもしれない。
ここでは事件を起こすことすら未然に封じ込まれた犯人たちの無念がマンガチックに描かれるが、このようにスタンスを変えれば、あらゆるトリックは新鮮味のある、ちょっと楽しげなものとして開陳され得る。それで人が死んだ、という重々しい前提から解放されたトリックたちは、リアリティがないだの、使い古されているだのという非難からも身をかわしている。
テレビドラマに仕立てる要領としては、だから決定的な事件が起きないことで、リズムが途絶えない、という点を最大限に生かすことだろう。事件がないのだから、俳優の個性は重めに、リズムは軽くなりすぎず、しかし常に流れていなくてはならない。滝藤賢一と広瀬アリスの掛け合いは、その要件を満たし、原作の存在を適度に忘れさせる。解釈というものが生きる余地があるのは、新しいコンセプトが確かめられるからに相違ない。
田山了一
■ 原作の井上真偽さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■