現代詩手帖という雑誌があることは知っていた (気がする) が、手にとったのは初めてだ。詩の雑誌のレビューといっても、詩とファンタジーとは勝手が違う。
齋藤都氏の総括コラムを読んで、よけいにつかみどころがなくなった。が、それでいい、やたら知った人よりむしろいいから書いてほしいとのことだ。
詩は短いので、雑誌にたくさん載っている。が、なんだか顔が見えない。昔からこんなふうだったのだろうか。
現代詩手帖は初めて読むが、ユリイカという雑誌の、現代詩特集か何かの別冊( ? )を古本屋で見たことがある。現代詩というのはひとつひとつ色や形の違う絵のようなものだ、と感じた。
雑誌が違うせいか、時代のせいかわからないが、現代詩手帖 4 月号ではそういった手触りは感じられなかった。それを手がかりにレビューしようと思ったのだけれど。
詩について書かれている文章を読んで、勉強しようかな、と考えた。
自分の知らないことを (この世界では知ってるのがあたりまえか? ) 議論しているのは理解不能なので、「詩誌月評」「詩書月評」を読む。詩誌は同人誌のことで、詩書は詩集のことだ。そのぐらいのことはわかる。
「もとより詩を読むものとして、書くものとして詩について思うのは、詩は無限の感覚に分け入るふしぎなもので、どこか世界に対する親愛というより不実や憎悪をこめたような、さらにいえば書きたいものなどはなにもないゆえに書くことを試みる不穏さで、退行戦をくりかえしては、それでも書くという残酷な欲望のようなものを素手で引き受けているようなところがある。」(「詩書月評」倉田比羽子)
「詩は無限の感覚に分け入るふしぎなもの」というのは、同感だ。だけど詩の専門家の文章から学びたいのは、その先のことだ。「ふしぎなもの」という感想は、わたしたち素人のものと変わらない。
「どこか~ような」「書きたいものなどはなにもないゆえに書くことを試みる不穏さ」「退行戦をくりかえしては、それでも書く」といった目的のなさは、せっかくの学習意欲を削ぐ。というか、このようにして書かれているというのが本当なら、いったい誰が読むんだろう。
それとも目的意識とか学習意欲とか、読もうという他人の意志すら拒絶されているのか。でも、そんな文芸誌って、いったい???
「詩誌月評」(河野聡子) は、同人誌の用紙や版組、デザインなどを論じている。こういう「表層批評」というのは、かつての蓮實重彦のように、それがスリリングに内容に転化してゆくのが見どころだと思っていたのだが…。
「このような素材や意匠について考えのあるなしが(中略)私は甚大な影響があると信じている」というようなところで、ちょん。
やっぱりこの人も「書きたいものなどはなにもな」く、つまりよほど書くことがなかったってことなんだろうか。それとも、そこから深く詩的なものを読み取れないわたしが未熟者なんでしょうか。
次回には、もっと別のところも読んでみます。。。
りょん
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■