やなせたかし氏の追悼号である。これからこの雑誌は、どうなるのであろうか。
どんな組織・集団も、創業者個人を超えて存続することを一度は目指す。しかし、それがふさわしいものとそうでないものがある。メーカーなどの大企業なら、従業員やユーザーに与える影響の大きさから、存続せざるを得ないし、また存続するべきだろう。だが商品の製造ならぬ、理念の維持を目的とする集団では、第二世代以降は見る影もない、ということがままある。
どうしてそんなことになってしまうのか。第二世代、継承者は創業者とともに働いて、その理念を理解していると思われていたはずだ。が、それは当の創業者の前でだけで、彼がいなくなると、これほどまでに違う存在だったのかと唖然とさせられることが多い、というわけだ。
つまり理念とは学習して身につけるものでなく、人の根本に最初から備わっているものが、さらに血肉となる経験によって確立されるものだ、ということだ。知的財産、文化風土的なものは企業によって継承することはできるが、純粋な理念は一代限りのものなのだろう。
「詩とファンタジー」の文化風土は決して高踏的には見えない。フレンドリーでポピュラーで、子供たちにも親しみやすい、またちょっとありきたりのもののようにも見えるが、さてそれを継承するとなると、普通に誰もが持っているありきたりの思惑によってずいぶん違ったものになり、最初の理念はそれほどありきたりではなかったことに気づく。創業者の理念に比べれば、継承者の思惑がいかに凡庸なことか。
やなせたかしのアンパンマンは、戦後の食糧難の時代を背景として、それを与えてくれる者、そのために自己を犠牲にする者が疑いなく「正義」であるとする理念を抱えている。飽食の時代に育ち、マンガチックな絵を描く自称デザイナーでも似たようなものができるかもしれないが、理念がない以上、それは似て非なる凡庸な代物に過ぎない。
もちろん、子供たちはその戦後史的背景を知るわけはないが、何らかの理念のあるなしは、子供だろうと大人だろうと感じるものだ。「詩とファンタジー」の理念もまた、やなせたかし氏の個人的なもの、「よきもの」の存在を信じるところにあったように思う。同じ強さでそれを信じる者でなくては、ポピュラリティやフレンドリーをいかに装っても、継承することはできまい。
やなせたかし氏の「生前葬特集」が2011年春に企画され、震災によって見送られたという。そのときの記事がここであらためて掲載、ということになるわけで、図らずも不思議な雰囲気を醸し出している。
生きているべき人々が多く失われたのが大震災であったが、亡くなった人があたかも生きているかのように生き生きとその思想を語り出すのが文学だとも言える。今日、テレビでマイケル・ジャクソンの 3D ホログラムで、生き返ったがごときパフォーマンスを見た。理念、観念、思想や芸術は一瞬、生死の境を超えてみせることがあり、たとえ錯覚と言われようと、まさにそのためにあるものでもある。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■