詩のカルチャーに通じていないと、わからない雑誌へのトライは無意味か。しかし雑誌というのは本来、啓蒙的なもんだ。他の「何か」で勉強しなくてはわからないものを雑誌が載せるとして、その「何か」が何なのかということを、その雑誌以外の何で学ぶんだろか。
と、禅問答のようになってしまった…。
気を取り直して、無理せずかじれるところからかじって、ちっとずつ食べてみたい。
神山睦美の『大審問官の政治学』を山城むつみが書評している。「むつみ」繋がりというのが「詩的」か? ともあれ双方ともに批評家で、詩人とかではないので、読めるはず。
と、思ったのだが…。まったくわからない。
「ドストエフスキーの大審問官にキリストは最後にくちづけていた。あれは何を意味するのか。」という、この冒頭からしてわからない。りょんはよほど無知・無教養なんだろうか。その通り、とゆーツッコミが聞こえたが。「ドストエフスキーの大審問官」というのは、いきなり出てきても「ああ、あれね」と誰もが想起できるようなものなんだろう。この雑誌の読者には。
もちろん一般誌では、書評というもんは本の紹介で、本を読むのは知識を身につけるためで、知っている人は読む必要はないもんだが。
で、ここのカルチャーに属すると思しきこの本では、「この一点 ( 大審問官へのキリストのくちづけの意味 、だろう) をめぐって十六世紀以降、現在に至る内外の思想 ( ホッブズ、マキャベリ、信長、アレント、フーコー、ネグリ、橋川文三、折口信夫、等々 ) を渾身の力で問い直している。」そうである。
それら並んだ名前の人々が皆、「くちづけの意味」とやらに直接関わる思想を有していたとは思えない ( 信長とかが、ね ) から、どうやら神山睦美がその「くちづけの意味」を考えるのに、これらの人々を題材にしたのだ、ということらしい。つまり「くちづけの意味」を「めぐって」いるのは神山睦美という人で、それを「めぐって」「十六世紀以降、現在に至る」「思想」があるっちゅーわけでないようだ…。えーと、この雑誌に載った書評のそれぞれには、一般向けの解説が要りますわな。
まあ、こうやって一文字、一文字、噛んで含めるように読んでいくと、どうやら大審問官というのは一般に考えられている「とっても悪いもの」みたいだ。で、それをも「否定しない」という、ぶっちゃけそーゆー思想らしい。津波も原発も、何もかも否定しないというところに至る、という主張のようで。ヘンな本。そりゃ書評も書きあぐねるわな、と一般ピープルは思うぞ。
「本当に苦しんでいる人間をまのあたりにして唯一、可能なことは」「その人が自身の苦しみに値しない人間になってしまうことのないように、と祈ることなのである。」これを福島の避難民に言う度胸、りょんにはないな。
こんな浮世離れしたなもん読むのに疲れ果てた無教養なりょんは、とても書物本体に手を出す気にならず。現代詩手帖の編集部とか読者とかって、きっとすんごい碩学ぞろいなのね。
りょん
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■