文学金魚がサイトリニューアルするということなので、それが済んでからでいいやと思っていたのだが、待ってくれないものもあるね。人の死とか。大岡信さんが亡くなって、それは確かに事件なのだろう。野際陽子が亡くなったのが芸能界にとって事件なのだなーと推察されるように。
野際陽子がそんなに大物だった、というのは若い世代にはちょっとピンとこないけど。もちろん超ステキな人だったから、人柄とかもあるんだろう。その人柄ゆえの人脈とかも。それに対して大岡信が大物だってのは、まあフツーにわかる。だって名前知ってるもんね。りょんも。
ほんで現代詩手帖の追悼号なんだけど、驚くなかれほぼ丸ごと一冊、追悼特集だ。こんなん初めて見た。文芸誌のお約束で頭の方に作品が並ぶんだけど、それもお尻にまわされて。だいたい連載しかないよ。これはなんだな、現代詩手帖の読者よりも大岡信の追悼号を買い集める人の方が多い、ちうことでんな。買い集めがたぶん現代詩手帖にまでおよぶだろうと。うん、肩書きは詩人だかんね。
それでりょんも知っている大岡信さんについて、全然知らない名前の人ばかりが追悼してる目次ってのは、なかなか壮観だった。追悼ってのはフツー、あっ、この人も親交があったのか、とか、へー若い頃はそーゆー繋がりが、とかでびっくりするもんなんだけど、全部知らない人が書いてると、びっくりしようがない。こういう追悼も初めて見た。同人誌とかの勝手に追悼、に近いかな。
ほんじゃあ、それがよくなかったかっていうと、それはそーでもないかも。だって同人誌の勝手に追悼って、すごくいいときあるよ。感動しちゃうときもある。大事なのは故人への尊敬とか、影響を受けた感謝とかで、必ずしも有名人同士のエピソードの披露ばかりじゃないってこと。
ただま、現代詩手帖の場合は感動はしない。なんか皆んなギョーカイ人として書いてるつもりみたいなのが雰囲気としてあって、ユーメー人のつもりとして書いてるとまではいわないけど。知らないりょんさんがギョーカイに疎いからイケないんだろうが、でも現代詩手帖のギョーカイ読者より数を見込める、外部の大岡信を知ってる人たちに向けて作った一冊丸ごと追悼号なのでわ?
それにしたって今号は、ナニがしたいかわかるんだからよかった。要するに追悼するんだ、ってのはばっちり伝わる。なにしろ一冊丸ごとだかんね。これはこの雑誌としては、かなりめずらしいし、いいことだと感じる。いっそ毎号、追悼号にしたらどうだろう。誌名も追悼誌手帖にするとか。大岡信ほどの大物でなくても、思潮社から自費出版を重ねた詩人が毎月、誰か死んでると思う。追悼号なら係累や友達、皆んな買うよ。
無意識の一致かもしれないけど、現代詩手帖は文学金魚のアドバイスを結構素直に受け入れた誌面づくり?をしてる気配だし、詩人たちは文学金魚についてゼッタイ言及しないけど、文学金魚の使うタームをいつの間にか取り入れて、金魚の詩の記事はアクセス数と滞在時間が異様に高い、というフシギな現象もある。誰が読んでるんだろうね。次は「現代詩」という呼称そのものの追悼号にしたらどうかな。
りょん
■ 大岡信さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■