たいへんお久しぶりでございますっ。りょんでございますっ。よもやお忘れではないでしょー。詩を知らない詩誌評者、知らんのは俳句短歌にもおよぶんでございますですがね、そっちのほーが多少マトモなもん書いた気すんのはなんでだろー。以前のりょんなら、そりゃー業態のクズれに比例してんだろ〜とか書いたかもしんない。けど、りょんは成長してもどってきたのだわあ。
りょんはそれで、ちっと海外にいたのでしたー。まあ正確には、ずーっといたわけぢゃなくて、だいぶん前に帰ってきてたんだけど。そんでそもそもこの時代、どこにいたから書けない、読めないってこたあない。んなこと承知なんだけどね、やっぱ書く気になんねー。周囲が日本語使ってないから、とか言う人もいるけど、ちっと違うなー。その世界にとって意味があるかどーかだね。
英語圏にいて日本語でモノを書くことはできっけど、そりゃその日本語で書かれたこと、一歩ゆずってそーやって日本語で書くことに、その世界の人たちがどう関心を持てばいいのか、「イメージ」が湧くってのが必須だと思う。実際に関心持ってもらわないといけないってんじゃなくて。
つまり自分自身の納得のさせ方なわけなんだから、人間ってのは自分の内面に意外と正直。もっとも一般に言われるように、りょんも発作的な愛国心に駆られてさ、なんか外部のこいつらにちゃんと説明して敬意をはらわせようじゃねーの、と思ったときもあるんだよびっくりぽんだろうが。
そーするってぇと、やっぱ俳句短歌のが攻略しやすくなんねん。外人さんにもっともらしいこという大義名分あるって。ま、すぐ我に返ったけど。詩だろーと俳句だろーと、外部の門外漢として、わからんわからん言ってたりょんが、ここへきて訳知り解説するっておかしくねーか。
それでわかったことは、海外行って日本の詩とか俳句とかについて紹介してきました、レクチャーしてきましたちうような話、うっさんくせーって思うわけだね。日本で、いつ誰がおめーの見識とかみとめてんだよ、つー。つか、おめー自身、わかってないことをどーやって紹介すんだよ。
ほんだけど一回だけ、たまたま持ってってた現代詩手帖の1冊を見かけた現地の知人に、ちょいと説明しかけたことがあった。その女性がためつすがめつ眺めてたのは巻末の広告だった。字が読めないんだから画像に見入るのは当然だけど、あの自費出版した人たちの白黒写真がすごくレトロというか、時間の流れを感じさせないって、感心してた。そりゃ何十年前の写真、出してる人もいるかんねー。
写真ってのは、時を止めることによって、逆に時間の流れを示すものなんだ。だから彼女の指摘は結構、するどい。つまりそれは時を止めるようなものじゃなくて、結果として十年一日という。で、2016年9月号のレビューだけど、今号の巻末の出版広告も、著者たちの白黒写真で、全然変わってない。それはそれですごいかもねーと、洋行帰りのりょんさんは、一瞬の愛国者として思ったのでありましたあ。
りょん
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■