アラサーちゃん 無修正
テレビ東京
土曜(金曜深夜)0:52~
いい時代になった。漫画でなく、ドラマの方でそう思えた。昔ならちょいと肩身が狭かった独り身の30女がメジャーな存在として言いたい放題なのがいいのではなくて、それが何しろ美しい。すなわち壇蜜効果に他ならない。
身も蓋もないことを言うには、美しさという資格が必要なのだ。美しくもなんともない女が残された芸としてあからさまなことを口走るのは、公害である。開き直りのつもりか、あるいはそれがまかり間違って何かの魅力に転化するかもしれぬという祈りのようなものかもしれないが、眉を顰めることすらできない深い諦念に陥るのは周囲の方だ。人間というのは、ほんとに汚らしいものだ、という。人間が汚らしい以上、世界もまたそうなのである。まさしく精神を侵食する公害。
壇蜜のような美しい人が漏らす身も蓋もないことは、なぜ哀れを誘うのだろう。日本語の根源的な意味でのものの哀れで、憐れさではない。そして身も蓋もないことがそれとして身に沁みるには、それなりの年齢を重ねなくてはならない。「花の色は移りにけりな いたづらに」という風情が、むしろ今を盛りにという美しさよりも心に残ることを、私たちは知っている。。。
などという、コギレイな言葉がまるで通用しないアラサーあるあるのオンパレードであっても、いやそうであるからこそ、壇蜜によって救われている。もちろん「無修正」というほどのものはなく、むしろ三十にもなって他愛ないと思われるものだが、もしその女優本人が実生活でもそのレベルで悩んでるように見えたら、逆に見てはいられないだろう。それこそ年増の憐れ、にしかならない。
壇蜜は大変知的な女性であるが、女優であるからには、知性はコメントよりは立ち居ぶるまいなどの外面で示さなくてはならない。アラサーちゃんの子供っぽさは、壇蜜のあの脱力した感じの独特の声、そして姿勢のよさが示す知性と矛盾した感じで、その矛盾がアラサーと呼ばれる女性たちの現状を象徴的に表している。
アラサーちゃんのライバル、ゆるふわちゃんは小柄な可愛らしさと若さをアピールする。たいていの若い男は、ゆるふわちゃんのぶりっ子攻撃に抵抗する術がない。それについて暴露するような、アラサーちゃんたちの内心の声はしかし、多少なりとも想像力のある男なら、別に教えてもらわなくたって察するだろう。ってゆうか、それがわかんない男はバカなんだから、捕まえたところで遺伝子劣化するし。
…というのがまさしく女子会トークというものかもしれない。そうしてウサを晴らし合う者同士、やはり出し抜き合う、という構図ももはや見慣れたものだ。どこをどう突ついたところで、あるあると言われるからには、すでにどこかで言われていることだ。新しいことはない。
新しいことはないエピソードの羅列を観るのは、何度も言うが壇蜜だからである。そしてそれは、女子マウンティングのドラマを沢尻エリカだからつい観るというのとは少し違う。沢尻エリカを観るのは、どこかに破綻が覗くのではないかという怖いもの見たさであり、ドラマである以上、そんなことは結局はない。破綻など起こすはずもない壇蜜のアラサーちゃんを観るのは、そんなレベルにはないはずの彼女のピンとした背筋の美しさが、ドラマの設定やセリフをどう裏切るかを観たいからに過ぎない。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■