昼顔~平日午後3時の恋人たち
フジテレビ
木曜22:00~
イメージフィルム、というものがある。もちろん、そういうものをただ眺めているというのは、かなり暇がないと難しい。したがって、何かしながらとか、それがカラオケのバックで流れているとか、あるいはストーリーらしきものを追いかけているつもりになるとかいうことでないと、目にする機会も多くないだろう。
この『昼顔』は、映像の雰囲気からして一種のイメージフィルムであると思う。そういうテレビドラマも別に悪くないし、数字が取れているということがそのすべてである。美しい映像のドラマの数字が高い、というのもよいことだ。それを観た視聴者が、どういうイメージを求めているのか、ということに尽きる。
なんとなく坐りが悪いのは、「平日午後3時の」とサブタイトルがくっついていることで、なんか平日午後3時に連続放映されるよろめき(古いな)ドラマかと錯覚してしまうことだ。古いと書いたが、まあ、いわゆるよろめきで、特に新しいところはない。だから悪いわけでもなくて、王道といったところだ。しかし木曜の夜10時は、平日午後3時よりも観づらくないか。亭主が帰ってきて、お茶漬けの用意をしているときに、キレイなよろめきのイメージフィルムが流れる、というところは新しいかもしれないが。
この「平日午後3時の恋人たち」というサブタイトルは、当然のことながら「金曜日の妻たちへ」という往年の不倫ドラマを踏まえているのだろう。「金妻」という流行語を生み出した名作ばりの大ヒットを、ということだ。この「金妻」、今は中居正広の「金スマ」というバラエティ番組のタイトルの下敷きになっていることから、どれほどの影響力があったか、わかる。
そして、この「昼顔」というメインタイトルについては、言うまでもなくケッセルの『昼顔』が本家で、だからこそサブタイトルで区別をつけていると思われる。しかしながら、よくよく思い出せば、あのカトリーヌ・ドヌーブの『昼顔』とは主婦売春の話であり、「昼顔」は昼間しか客をとらない彼女の源氏名であった。それは主婦の昼間の浮気とは、本質的に大きく異なると思うのだが。
カトリーヌ・ドヌーブは非常に美しかったが、今、日本のテレビドラマで主婦売春をやるとなると、美しいイメージフィルムにはなるまい。なんかの精神的病いをあばきだすとか、夫に内緒のローンを抱えたとか、生活苦とかいった社会的なものを描くという口実が必要だろう。それはテレビというものがそうであるということの他に、主婦をめぐる性のタブーが物語としては陳腐化した、ということでもある。
そして陳腐だからこそ、多くの視聴者の共感を得られるということもある。美しい映像でイメージ化したり、浮気されてもしょうがないと思われる亭主像を描いたりと、言い訳めいた仕掛けが必要になるが、それでもこの国の主婦は、浮気するのにまだ口実を必要とするのだ、ということを示すのに役立つ。
『昼顔』のドヌーブは、問答無用の圧倒的美しさであった。その美しさはあらゆる説明を凌駕していた。これほどの美しさは、幼児体験がどうあれ、いずれ階級制度の中に収まってはいられないだろうという。その『昼顔』を踏まえるのに、昼間ぷらぷらしている男なんかでもいいんだ、私を認めてくれれば何だっていいんだ、という妻たちの訴えは、ちょっと戯画的である。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■