シャーロックホームズ(人形劇)
NHK
不定期 全20回
何だか、わくわくする感じである。この人形劇に惹かれるというのは、何なのだろう。ターゲットとしては子供と、人形劇を観て育ったその親の世代、とある。もちろん後者に近いのだろうが、この感覚は果たしてノスタルジーなのだろうか。
NHK の人形劇はいくつか記憶に残るが、シャーロックホームズというのは意表を突く。あの暗く湿ったロンドンの、知的ではあっても仄かにおどろおどろしい雰囲気漂うシャーロックホームズを、こともあろうにお人形さんにしてしまうとは。お人形といえば頭が大きくて子供っぽく、またマンガっぽくもなる。さすがはアニメ文化の総本山、日本の放送協会だけのことはあると国際的にも感心されようか。
もちろん、シャーロックホームズは子供向けに編集されたシリーズもある。子供向けにすることが注目に値するというわけではない。人形という手の込んだものにすることで、意味の変容が生じる。そのことに意識的だからこその、わざわざのシャーロックホームズに違いない、と思う。すなわち人形劇、特にテレビにおける人形劇化とは何か、という問いを思い起こさせる仕掛けである。
人形劇の独特の魅力は、人形の背後の空間が持つ永遠性ではないか。空虚で心細く、それによって支えられる人形の存在が際立つ。人形たちは俗世のものではなく、いわばあらかじめ古びているので、いつ観ても古くない。この永遠の世界像は確かに、子供が世界に対して持つイメージに合致している。それは大人でも持ち得る、思い出し得るものなので、人形が子供の玩具だからということには必ずしもならない。
人形劇化するということは、ある世界を変容させながらなぞる、という意味でネットでよく見かける二次創作という用語が当て嵌まるのだろう。脚本の三谷幸喜自身、そのような言葉を使って語っている。このシャーロックホームズは人形劇にふさわしく、15歳と若い。舞台は学校で、事件はシャーロックホームズのシリーズから採られているが、殺人は起こらない。
三谷幸喜は『12人の優しい日本人』や『古畑任三郎』など、推理物のリメイクに傑作が多い。そのリメイクは殺人という事件性から、不条理劇へとスリップし、その結果コメディと化してゆく。と言うより、三谷幸喜という書き手の本質的なテーマは、あの『やっぱり猫が好き』の頃から不条理であった。ミステリーはその不条理をもたらす装置としてはよいものだ。
そしてさらに三谷幸喜言うところの「シャーロックホームズはミステリーではなくアドベンチャー」として捉えようとするならば、今回はそれを強調するものとしての15歳の躍動感であり、相対的に内面を描きづらくさせる人形劇である、ということだろう。シャーロックホームズという最も自在な知性の持ち主が、パペットという奇妙な異形の姿に押し込められている、ということ自体が最大の不条理である。
その不条理を現実に軟着陸させ、積極的な意味付けを与えるものが、若さや幼さ、学校という縛りだろう。そこでの異形の者たちの「アドベンチャー」はもちろん、不思議の国のアリスのアドベンチャーと同種でなくてはならないのだ。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■