ファージョンはその素質として、詩人に近い物語作家だ。したがって長編小説のプロットが立たない。それは未完に終わった自伝によって一目瞭然である。もちろん作家の価値は、オリジナルのプロットを立てる力量だけで決まるものではない。いつまでも心に残り、忘れられないものは存外、永遠の一瞬と呼ぶべき断片であることが多い。
しかしながら、そのような永遠の一瞬である断片は、とりとめのない断片の集積の中から拾い出されることはない。ある構造の中で深い意味をはらみ、なおかつ言葉にならない思想の全体像に通じた瞬間が、まさにそれなのである。その “ 像 ” はたまたま断片であるだけで、実は全体なのだ。
ファージョンには長編小説のプロットを立てられない、と言うことは、ないものねだりに近い。彼女は本質的に子供であり、そうであることを意図的に選び取っている。万人の鑑賞に耐える作品だが、やはり「児童」文学作家として認知されているのは、偶然ではない。
ファージョンが、しかし同時に並の作家でなかったことは、長編小説的なプロット創造の欠落を補って余りある、素晴らしい構成力を発揮したことにある。それはほとんど奇跡に近い。彼女は永遠の子供だったが、自らの欠落を認識する知性にきわめて優れていた。
ファージョンが取った方法論は、語り部の置かれる状況を設定し、その語り部たる彼もしくは彼女に、短編作品たる物語を語らせるというものである。しかし、この手法自体は、さほどめずらしくはない。
『年とったばあやのお話かご』は、このようにして纏められたファージョン作品集の筆頭に挙げられる。それは全体の構成、すなわち語り部たるばあやとその語る物語との有機的な繋がりおよびバランス、ばあやと子供たちとのやりとりと差し挟まれる物語とのリズムが絶妙であるからだ。完成度の高さは、出世作で代表作でもある『リンゴ畑のマーティン・ピピン』をも凌ぐ。
子供たちの靴下の穴をかがりながら、ばあやはお話をする。穴にぴったり長すぎず、短かすぎない物語は、語られる呼吸が一針ずつの動きそのものであるかのようだ。長い話をせがみたい子供たちは、わざとらしく大きな穴をこしらえる。何千歳かである(とされている)ばあやにもかつて、たった一つ、つげなかった穴がある。それは赤ん坊の頃にお守りしてやったネプチューン王が、自分の娘を取り返すため、膝小僧で海に空けた渦潮の大穴であった(「そのあなは つげない」)。
だが最も美しく、忘れがたいものは、靴下の穴をかがりながらの話ではない。子供らが眠った後、どうしても寝つこうとしない赤ん坊のメアリ・マチルダに話してやる、いわば聞き手のいない最後の囁きだ。いつとも知れない遠い昔の、ばあや自身の少女の頃の出来事とされるそれは、それまでの大ぼら物語とちょっと違う、静かな、真実を含んだ色が見える(「海の赤んぼう」)。そしてこの作品集がとりわけ傑作であるのは、いつものペン画にそれぞれ、ほのかに色彩がにじんでいるかのごとき錯覚を覚えることからもわかる。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■