『けがれなきいたずら』は、スペイン人のホセマリア=サンチェスシルバによって一九五二年に書かれた児童書である。当時はベストセラーと言ってよいほど読まれた。五五年には映画化され、日本では『汚れなき悪戯』の邦題で公開された。ただこの本は、児童書の形を取った宗教書である。映画『汚れなき悪戯』で主役を演じたパブリート・カルボの演技があまりにも愛らしかったので(カンヌ国際映画祭で特別子役表彰を受けた)世界的ヒット作になったが、宗教心があるかないかで、この本の読後感は大きく変わるだろう。
いまから百年ほどむかしのことです。
フランシスコ会のぼうさんが三人、小さな村の村長さんに、おねがいをしました。十キロほどはなれた村の土地の、古い古いこわれたたてもののあとに、ただですまわせてはもらえないだろうか、というのです。
心のやさしい村長さんは、役場のおもだった人々にもそうだんしないで、じぶんひとりできめて、そのねがいをききとどけてあげました。(中略)
三人のぼうさんたちは、夕べのおいのりをして、そまつな食事をすませ、夜もふけたので、ねむりにつきました。
朝になりました。やり手のぼうさんがいつもせんとうにたって、三人は、こつこつとはたらきはじめました。
このようにして、めったに人もやってこないところにあった、あの古びたたてものが、ふたたび、たてなおされていったのです。
欧米人ならフランシスコ会の修道士と聞いて、「それならあえて苦難の道を選んで荒野に教会を建てようとするだろう」、「贅沢ができる環境でも、彼らなら粗末な食事で済ませるだろう」と考えるはずである。冒頭にフランシスコ会修道士が登場してきた時点で、この物語の骨格はほぼ決まっている。
ある朝、修道士たちの粗末な教会の前に捨て子がある。男ばかりの修道士たちは狼狽し、その日は聖マルセリーノのお祝いの日だったので、とりあえず赤ん坊をマルセリーノと名づけて洗礼をほどこし、村に親探しに出る。しかし親は見つからず、赤ん坊を引き取ろうと言う村人も現れない。修道士たちはやむを得ず赤ん坊を育て始める。彼らはすぐに赤ん坊の愛らしさに魅せられ、全員で慈しみながら育て始めるのである。
教会の子とはいえ、マルセリーノは悪戯好きの少年に育った。ある日、マルセリーノは修道士たちから決して入ってはいけないと言われていた屋根裏部屋に忍び込む。そこには小さな教会には納まりきらない、大型のキリスト磔刑像が横倒しに置いてあった。大事な聖像であり、また傷ついた生々しいキリストの姿にマルセリーノがショックを受けないように、修道士たちは部屋に入ることを禁じていたのである。
果たしてマルセリーノは、キリストの痩せて傷ついた姿に衝撃を受ける。しかし不思議と恐怖は感じなかった。マルセリーノは痛々しいキリストの姿に同情し、彼のために教会の厨房からパンやぶどう酒を盗み出し、屋根裏部屋に運ぶようになる。キリストは十字架の上から手を伸ばしてそれを受け取り、やがて十字架を降りてマルセリーノと話をするようになるのである。
「それでは、なにがほしいの。」
キリストはたずねました。
マルセリーノは、それをきいて、ゆめうつつのようでしたが、目は、しっかりとキリストの方にむけて、いいました。
「ぼく、おかあさんにあいたい。それだけ。それから、あんたのおかあさんにもあいたい。」
キリストは、マルセリーノをぐっとひきよせて、ごつごつしたひざの上に、じかにだきあげました。そして、マルセリーノのまぶたをそうっとなでて、やさしくいいました。
「では、おやすみ、マルセリーノ。」
そのとたん、十一のさけび声が、いっせいにあがりました。(中略)
「きせきだ!」
院長さんも、ぼうさんたちも、口々にさけびました。
ところが、へやの中は、しいんとしずまりかえり、(中略)いつものようにやせほそって、苦しそうなキリストが、みうごきもせず十字架にかかっています。
ただ、マルセリーノだけが、ぼうさん用の大きないすのひじにもたれて、ねむっているようです。
ぼうさんたちは、(中略)やっと、マルセリーノは、もう目をさまさないのだとわかりました。
この物語の結末の意味は、敬虔なキリスト者でなければ理解できないだろう。マルセリーノの死は現世では悲しむべき少年の死だが、それは永遠の生を得る至福でもある。彼は神に選ばれた子供であり、キリストの導きによって現世とは違う審級にある神の世界に移ったのである。そこには信仰と殉教を一体とみなす思想がある。
作者のホセマリア=サンチェスシルバは、母親から聞いた古いスペインの民間伝承を元に『けがれなきいたずら』を書いたと言っている。スペイン人すべてが敬虔なキリスト者ではないだろうが、その宗教共同体が『けがれなきいたずら』のような宗教心を核としているのは確かである。実際にそうできるかどうかは別として、マルセリーノのように現世と来世(神の世界)のどちらを取るかと迫られたとき、迷わず神の世界を選ぶ宗教心である。
『けがれなきいたずら』のような、童話の形を取る宗教譚は欧米には数多くある。『不思議の国のアリス』を始めとする欧米の童話が煌びやかで豊かな世界であるのに対して、宗教譚は灰色の世界である。主人公たちはおしなべて貧しく、社会的に虐げられている。しかしなにも持たず、なにも望まず、与えられるものはすべて与える強い信仰心を持っているからこそ、貧しい人々は神に選ばれるのである。
ただ世界を統御する神という極点(中心点)を持っている宗教・文化共同体では、物語を立体的に構築しやすい。「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」で始まる物語は、欧米では宗教譚になりやすく、日本では怪異譚になりやすい。現世の汚濁や混乱の上位審級にある、イデアルで秩序だった精神世界を持っている文化と、汚濁や混乱のただ中に留まって、その不可解さを直視しようとする文化の違いである。欧米の童話に傑作が多いのは、天井と地上という、基本的にはキリスト教に基づく世界構造があるためである。
そのため日本語で書かれた近現代の童話は、キリスト教的世界観を援用している作品が多い。もちろん地上(無秩序な現実世界)と天上(秩序だった精神世界)を構造的に取り込んだ作品だけが秀作になるわけではない。しかし日本と欧米の基本的な宗教・文化的精神構造の違いは、それぞれの文化に属する作家たちに大きな影響を与えている。正統キリスト教譚である『けがれなきいたずら』を読むことは、東西の文化的差異を考えるきっかけになるのではないかと思う。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■