この本の中で暮らしたら、と思えるような造りである。くっきりした矩形、本と言うよりオブジェである。が、開けば文言が、すなわち思想とメッセージがある。書物とは人の精神の容器であるという点で、人の容器である家にすこぶる似ている。
本は家ではなく、なお素晴らしいものでもある。安藤忠雄の「家」には、安藤の建てた多くの住居の図版、断面図、写真が含まれている。ここには無数の空間があるのだ。一番美しいのは、安藤のスケッチ、建物のデッサンだ。無生物である建物を描く線は、しかし自在に空間を切り、創り出してゆく。そして我々の意識は空間を創り出すと同時に、空間によって創り出されてゆくのだ。その往還は抽象的でありながら生き生きとしている。
建築というのは、妙なものでもある。実用物であり、大きなビジネスを生むものであり、それゆえに人を規定し、けれども人によって作られ、アートでもある。空間のアイデアが組み立てられた安藤のスケッチは、現代アート作品めいている。機能的でありながら夢想的でもあるのだ。つまりは “ 人の営為 ” そのものだ。
そしてそこに住む、住まうというのは、どういうことだろう。環境は人を作るが、その環境を選び、作り出すのも結局はその人間だ。住むとは、食べる、走る、仕事するといった能動態の動詞ではないが、実際には本人の有り様を最も示す。ならば選んだ建築家とはいえ、その指図通り、その建築物のコンセプト通りに住めるものではあるまい。他者なる建築家の思想を表している家に住むことは、それを徐々に自身と混交させていくことに相違あるまい。
だとすると、安藤忠雄の思想である “ 個 ” を確立させる建築とは、それを徹底するというようなものであるはずもない。リゾーム状に拡がる関係性を抱えた長屋だとか、内装で変化を付けることをもって建築だと思うこととか、そういったものとの決別が安藤忠雄であった。それは我々の意識に、大げさな言い方をすれば確かに革命をもたらしたと思う。空間に対する認識、視点が変わったことは、一つの新しい思想の出現であった。が、思想や観念は、現実の運用の場面ではずれるものだ。ずれなくてはおかしい。
一冊の本に見るものが人によって様々であるのと同様に、いやそれ以上に、家で起きていることをどの視点から見るかで、何段階にも風景が異なってくる。単純に言えば、家族小説でしばしば示されるように、家族の数だけ視点がある。そのそれぞれの視点は、家の空間をどのように捉えているだろう。どの国を中心に据えるかで世界地図が変わって見えるように、それはそれこそ “ 個々 ” に意外な歪みを見せてはいないだろうか。
今、流行り出した 3D プリンターで、それら主観による空間の歪みを表現してみせたら面白かろうと思う。妻であり母親である女性にとっては、キッチンとダイニングを中心に、しょっちゅうは見ないはずの子供らのそれぞれの部屋の内部が肥大化してはいないだろうか。子供らには自分たちの各々の部屋だけが世界で、他はその付属物に過ぎないかもしれない。家政婦にとってはすべてが磨き上げるべき表層、夫であり父親である男性にはリビングと寝室とバストイレが家で、ダイニングは社員食堂の変型に映るのではないか。
“ 個 ” の有り様はミニマルな視点で多様になり得る。ただ、物理的には同じ一つの空間で暮らしている以上、それは混交し合う。その全体としての、あるいは個々の “ 個 ” の有り様が、コンクリート打ちっぱなしによってクリアになる、というのも透明な、それも夢想ではある。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■