代表作の誕生――辻原登『卍どもえ』
作家・辻原登の代表作が更新された。現時点での最高傑作は疑いなく本書『卍どもえ』だろう。ではしかし「代表作」の定義とはなにか。最高レベルの傑作とはいえないものをわざわざ代表作として挙げることはないとすれば、人は何をもってそれを傑作と判断し、作家の存在理由としての「代表作」と呼ぶのだろうか。
言葉の遊びとして傑作や代表作といった文学概念をいじくり回しているのではない。「傑作とは何か」。「代表作とは何か」。それは大向こうの受けがよかった作品、あるいはよく知られた作品のことなのか。こういう問いを本質的なものにしてしまうのが作家・辻原登であり、その最大の特異性である。それは一般に思われている〈辻原登〉のイメージとはかけ離れているかもしれない。すなわち作家〈辻原登〉は二重底なのである。
〈辻原登〉は「村の名前」で芥川賞を受賞したのち、優れた純文学的(ここでの意味は雑誌「文學界」的と同意)短編の名手として最初のイメージを確立した。いわゆる文壇事情に必ずしも通じていない読者のために説明すると、これは一般に考えられているほど当然でも、またそう容易いことでもない。各文芸誌の新人賞を受賞した新人作家は、そこから芥川賞を受賞するまでさんざん教育され、多くの新人作家は学んだ芥川賞的な「書き方」と引き換えに自身の資質を見失う。あるいは資質なんか最初からなかったことに気づかされる。
逆説的だが、芥川賞教育によって自身の資質を失った(あるいは、ないと気づかされた)作家たちは、芥川賞的な「書き方」に向いてなかった、というわけではない。むしろそれに向いていた。というより、雑誌「文學界」の教育によって「書き方」を決めてもらう必要がある作家だった、というのが大半だ。その意味で、芥川賞受賞のための教育というのは、たしかに作家を篩(ふるい)にかける役割を果たしている。受賞後も生き残った者は例外なく「芥川賞的な書き方」を相対化する、したたかな力を温存している。その点において芥川賞そのものも一筋縄でいかない、優れた篩でもある。
作家としての力量により、王道を踏み外すことのなかった辻原登はその後さらに、私たちがイメージする超王道的な発展を試みる。すなわちエンタテイメント的な長編小説、とりわけかつての文豪たちも手がけた新聞連載小説を次々と完成させる。これにも資質が必要で、純文学的な短編作家が誰しもその気になれば本格的な長編小説を書けるわけではない。単にエンタメ要素を入れて長く引き伸ばしただけでは、なぜだめなのか。それを考えて答えを導き出すには〈知性〉が必要だ。純文学作家が大衆作家より知的だと思うのは、大間違いだ。特に新聞という社会的な器と関わるには、訓練された社会性も必要になる。純文学という特殊な、囲い込まれた〈村〉に馴化してきた物書きは存外、社会性を欠落させている。
以上は作品の話ではなく、文壇と作家の話に過ぎない。不純なつまらない話、下品な文壇ジャーナリズムと感じる向きもあろう。当然である。ただ、辻原登という作家とその作品を論じるには、そういう事柄の底辺からも掬い上げるように、足元を踏み固めるように見ていく必要がある。長年にわたってその作品を読み、また近くでその佇まいを(たまたまだが)眺めてきた筆者にとってすら、辻原登は一筋縄でいかない、作品も立ち位置もどこか不思議な作家なのである。だが本書『卍どもえ』は、いよいよその謎を解いたように思う。
五十一歳の瓜生甫(うりゅうはじめ)は東京・青山にデザイン事務所を構え、業界組織の会長としてその地位を確立しつつある。妻・ちづるとの間に子供はなく、瓜生には昔からの女、また新しく出会った女など、人並み以上の付き合いが絶えない。一方の妻・ちづるはネイリスト塩出可奈子に誘われ、女性同士の関係に至る。また語学学校の経営者である中子脩とその妻で旅行プランナーの鞠子、この夫婦と瓜生夫婦それぞれとの関わりも、卍どもえに展開していく。
このようなストーリー、プロットに対し、評者は二つの態度を選ぶことができるだろう。谷崎潤一郎へのオマージュを含む営為を文学的な、かつ知的で現代的な創意とみて評価する態度がひとつ。もうひとつは谷崎潤一郎によって読み方を提示された、あくまで趣向をこらした風俗小説として一定の評価をする、という態度。評者の立場やそのときの気分でもって、そのどちらかを選び、文学批評らしい構えで書き上げれば、書評の一丁上がりだ。どちらにしても、たいした違いはない。そもそも褒めようと貶そうと、そういった「文学的身振り」に、いまや意味なんかほとんどない。
『卍どもえ』というタイトルが示しているのは、谷崎潤一郎へのオマージュというより、表向きの口実である。谷崎的なテーマ、谷崎的な登場人物、谷崎的な人間関係が、現代からオマージュを捧げられるべきものと心底思うなら、谷崎潤一郎をもう一度読めばよい。それだけの価値のある作家なのは間違いない。その風俗の中身を、ただ現代のものに置き換えたところで、オマージュというより手慰みに近くなる。
辻原登『卍どもえ』
2020年1月8日 中央公論新社刊 464ページ
もちろんジャンルやプレテキストのことなど考えず、まずは楽しく読み進めればいい。が、ふと気づくと『卍どもえ』の登場人物たちは、誰も彼も俗物であるか、ごく外形的な存在だ。心理描写のリアリティゆえに彼や彼女に同情はするけれど、必ずしも共感はしない。そして谷崎潤一郎作品の登場人物に対するように、彼らへの好き嫌いや批判を口にのぼせる気には、あまりならない。登場人物たちは、よくもわるくも「魅力」たっぷりに読者を惹きつけることはないのだ。しかし小説とは登場人物を好きになったり、その行動について熱く論じたりするためのものなのだろうか。それも読書の愉しみには違いないが、たとえば常に『ライ麦畑』のホールデン少年みたいな「魅力」ある彼が、あたかも友達であるように感じられなくてはならないのだろうか。
何を〈小説の要件〉と考えるかは、作家の〈思想〉そのものである。読者の常として、自分が期待する要素はすべて満たしてほしいと願うわけだが、それらの要素が常に〈小説の要件〉を構成するとはかぎらない。いや、一般読者の要求する要素が常に〈要件〉になるものはあって、それを大衆文学という。
読者が期待する要素がふんだんに盛り込まれている『卍どもえ』は、エンタメとして読みたい向きにはサスペンディングなエンタメ小説の顔をして向き合ってくれる。これでもし主人公などが「魅力」たっぷりであれば、読者は夢中になると同時に距離感を失うだろう。素晴らしい読書の時間を過ごすかもしれないが、その手の大衆小説がひとつ増えるだけだ。
登場人物たちへの共感を排するような〈冷たさ〉は、もう一人の文豪の作品を思い起こさせる。夏目漱石は未完の遺作『明暗』で、たしかに登場人物たちを天から俯瞰し、その心情も主張も相対化してみせた。ここで則天去私という思想を具現化するのが小説であるなら、共感を禁じることもまた、ひとつの優れた表現なのである。
さらにもうひとりの作家の思想がよぎる。歴史小説を創始した森鷗外だ(「オール讀物」とかに載っている時代小説とは違う)。文豪の記憶のバーゲンセールのようだが、これも本書を紐解くには必要だ。なぜなら『卍どもえ』の最大の特徴は、わたしたちの生きる現世で実際に起こった事件が取り込まれていることにある。男女の、あるいは女女の性、風俗小説としての実在する土地や社会の描写、サスペンスとしての謎解きのカタルシスと、およそエンタテイメントとしての要素を取り揃えながら、わたしたちが一番興奮し、目が覚める思いがするのは、記憶にある事件――オリンピックのエンブレム盗作疑惑や渋谷の天然温泉爆発事故――が、登場人物たちの運命を変える出来事として再現されていることだ。
それら事件の生々しい記憶は、本書をまるで「飛び出す絵本」にするようなインパクトを与える。では、それはほかの要素とともに、読者サービスとして取り込まれているのだろうか。もしそうならエンタメの時代小説を想起することはあっても、森鷗外の記憶が蘇ることはなかったろう。それらの出来事は単に物語に「引用」されている、というのとは違う様相を呈している。
たしかに辻原登の既存の作品にとっても「引用」、「本歌取り」あるいは「オマージュ」はキーワードではある。以前にも書いた覚えがあるけれど、最も衝撃を受けた辻原登の一言は、「テーマを求めるなんて、あさましい」。深層的なものであれ、作家の〈テーマ〉を探り出そうとする読み手にとって、これは詰みに近い言葉だ。
もちろん小説は構造物であり、構造がある以上は中心(物体でいえば重心)は必ずある。何であれその中心を〈テーマ〉として定義するなら、辻原登の作品にも間違いなく〈テーマ〉は存在し、それを探り出すことはやはり作家の謎を解き明かすことになる。だがそれは、いわば建築物の構造計算だ。すなわちテキスト・クリティックによって客観的に割り出されるものである。「文学的」にこうあらまほし、というテーマを求めようとするのは二流の評者の都合に過ぎず、どんな作品についてもたしかに「あさましい」。
テーマを無化しようとする辻原登は、ではいわゆるポストモダンの作家か、というとそれは明らかに違う。日本におけるポストモダンは輸入概念であり、それを念頭に置いた〈現代小説〉は文字通り頭で書かれたもので、たいてい読むに値しない。端的に言えば、書くことのない若い純文学作家がよそから借りてきた猫のようなものだ。
思い切った引用で、オリジナリティの神話を破壊してきた辻原登の振舞いはポストモダンに似てはいても、その発生の根源はごく肉体的なレベルにある。それ自体、撞着しているのだが、その撞着を作品という存在格で昇華する。辻原登にとって、だから作品は必然であり、すべての帰結である。こればかりはポストモダンの作家たちのできることではない。似てはいても出自が異なる。すなわち辻原登は日本語で書く、日本の作家だ。それ自体が〈テーマ〉で、それに尽きる。だとすれば〈日本語で書くこと〉そのものを見えにくくし、曇らせるだけの通りのよい「テーマ」など、唾棄されるべきである。
そのようなあり方を、アイデンティティに近いヒントとして提示した作品が2000年に刊行された『遊動亭円木』だろう(第36回谷崎潤一郎賞)。既存の物語を、そのたびに新しい気迫で語り続ける盲目の噺家・円木の姿は、作家にそのまま重なる。作品の完成度もさることながら、本質的な読解の手がかりが得られるという点で、読者としてはこれを〈代表作〉と認識してきた。
実際、噺家・辻原登の作品の中で、目立ちはしないけれど愕然とするほどの冴えた芸を示すものは、ぎりぎりのところで、いや踏みとどまることをも放棄したような際どい「引用」をベースとする短編に多く、そこに最も本質(あえてテーマとは呼ばない)が夾雑物なしに表れている。その際どさはオリジナリティの凡庸を見切り、なおかつ新しく可能な世界を示そうとするもので、本書『卍どもえ』にもその名が登場する前衛詩人・吉岡実の晩年の手法を彷彿とさせる。
もしスムーズな物語を心がけるなら、登場人物たちが吉岡実詩集を取り沙汰するというのは、彼らがいかにインテリであれ、少々そぐわない。しかしここでは実在した詩人である吉岡実の存在格が、登場人物たちを圧倒する。すなわち吉岡実の名が物語に「引用」されているのではない。実在の人物、実在の場所、起こった事件、それら現実世界の方に登場人物たちが引き摺り込まれているのだ。作品の彩りとして「引用を意図する」のではなく、引用したものが「そこにどうしようもなく存在するもの」として作品世界を変える。その方法はたしかに吉岡実が晩年、達成した奇跡に近い。
『卍どもえ』に散見される、わたしたちの記憶中枢を刺激する事件がそうであるように、今までの辻原登の作品において下敷きとされた事件も、あるいはプレテキストも、思い返せば読者サービスであったことはない。今回ほどその〈狙い〉が明確に示されたことはなくて、もしかすると読者はそれに敏感に異和を感じ、どこか騙されたみたいな、把握しづらい不快すら覚えるかもしれない。その不快感にこそ、本来の意味における純文学的思想がひそんでいる。読者をして90%は満足させ、しかし決して100%は理解されないまま、ちょっとまわりくどい、知的な香りのする風俗エンタメ小説として読まれ、評価されること。それがこの小説の〈企て〉である。本当のサスペンスはその設えそのものだ。読むべき作家の〈思想〉はアイデンティティより上位に、世界観にある。作家・辻原登は二重底なのである。
小原眞紀子
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