55歳からのハローライフ
NHK総合
土曜 21:00~ (連続5回)
原作は村上龍。したがって小説というより、早期定年前後、あるいは定年後を考え始める年代のケーススタディ集のように捉えればよいのだろう。読者も視聴者も、我がことと重ね合わせて、共感を呼べば成功と言える。
しかしケーススタディというのは、活字媒体の専売特許なのかもしれない。我がことや知人のことに重ね合わせるには、顔が見えない方がいい。細かな差異を無視したり、一致点を肥大化させて捉えるには、活字の抽象性が好ましい。だからおそらく演じる役者としては、できるだけ普遍的に、つまりは没個性的に振る舞うのが正解なのではないか。これはやっぱり通常のドラマとは違うだろう。いや、それはまさしくテレビドラマ的な光景で、個性や作品性を打ち出すものの方がいまや特殊なのかもしれないが。
そこで、そのように作られたドラマを観ると、残念ながら自分は違和感をおぼえた。自分は、などとレビューにあるまじき注釈もしくは逃げを入れたのは、はまる視聴者にははまるだろう、と思われるからだ。他人のケーススタディに過ぎなかったものが、血肉を備えた具体的な映像として目の前に現れたとき、自らの持つ「55歳」の人のイメージと合致しているか、していないか、ということだ。
同窓会などで露わになるが、年齢を重ねるにつれ、人と人の「人種の違い」は拡がってゆく。机を並べて同類だと思っていたのが嘘のようだ。職業からくる習慣、環境の差異の積み重ねだろうか。そもそもそのような職業、環境を選んだところから人種が違っていたのだと思える。
ドラマの中の彼らは、いったいに老けすぎているように見える。ドラマの俳優というのはしかし、通常は美化され、実際より若々しいのが普通ではないだろうか。そういうふうでなければ、また通常はリアリティが生まれるはずだが、実際のその年齢の人々より老けているのは、もしかすると没個性を目指した演技のせいかもしれない。
この老け込んだ感は同時に、彼らの言動の奇妙な幼さからも、もたらされているようだ。早期退職してキャンピングカーで旅をする、その計画は別に幼くはない。しかしそれに対して賭けているものとか、今までの年月や経験をその代償として値踏みする、その気持ちの天秤のかけ方とかが、55歳にしては幼な過ぎる。と言うより、あり得ない薄っぺらさだ。実際にその年月、会社で働く経験のなかったものが、空想で描いたようなものだとするなら原作の問題だろうが、いずれ視聴者が自らの記憶でそこを埋め合わせた上で共感してくれることを期待するしかない。
亭主そっちのけで犬に入れ込む主婦、同じ愛犬家の男に対する淡い恋情、その夫はネットでブログを書くことに夢中、というのも行動パターンとして高校生とどこが違うか。大学生並みの知力や行動力もなく、高校生レベルにまで衰えたことを「老い」の表現とするなら、そんな老人に同情の余地はない。
難しいところはあると思う。ケーススタディとしてできるだけ一般化することで、平凡な夫婦として共感を得るなら、年相応に成熟していなくてはならないが、それではドラマにならない、ということだろう。ただ、55歳という年齢なら、仮に年甲斐もなくと卑下するとしても、その行為はなるほどそれまでの経験、職業、すなわちその「人種」を露わにするようなもののはずなのである。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■