花子とアン
NHK総合
月~土曜8:00~
NHK の朝の連ドラが立て続けに絶好調だ。いったい何が起こっているのだろう。朝の連ドラと言えば、ちょっと前までは面白くないものの代名詞だった。民放ドラマの「リーガルハイ」で、新垣結衣が堺雅人から「この連ドラのヒロインが!」と罵られていたのも記憶に新しい。時代の空気、同時代の共振性というのは不思議なもので、「朝の連ドラ」なるものが我々の意識において総括かつ相対化されると同時に、そのメタレベルでの再生が行われた、ということだろうか。
もちろん、朝の連ドラにも歴史に残るヒット作がある。と言うより、天下の NHK がヒットを出せない方がおかしい。予算は潤沢、キャストは豪華で、問題は、そう常に問題は脚本だけなのだ。
「朝の連ドラ」という枠の中で、本気で脚本を練ることなく、「女医もの」とか「旅館の女将もの」といった企画に流れていったとき、毎朝毎朝、同じようなシーンが繰り返される面白くないものの代名詞が出来上がっていくのではないか。チャンネルを合わせるたびに、「まあ、メアリー!」と叫んでいた気がするのは、ホテルの女オーナーものだったか。
この快進撃は「カーネーション」から始まった。リアリティと迫力が見どころだったが、必ずしも実話であるからもたらされたものでもあるまい。その実話を正しく評価し、キャスティングや演出に反映させたものがドラマだ。「あまちゃん」は「朝の連ドラ」とアイドル史を完全に相対化・脱構築しつつ、それが最大の財産であるという認識を示した。「ごちそうさん」は何が面白いのか、よくわかんなかったが、確かに「朝の連ドラ」の王道のフォーマットは財産である、と確認されたようだ。
そしてこの「花子とアン」だ。『赤毛のアン』の主人公、アンとその翻訳者、村岡花子とを重ね合わせるというメタフィクショナルな手法は、一歩間違えれば朝ドラの視聴者が最も受け付けない、テクニカルなものになりかねない。が、加減がよくてバランスがとれているようだ。それがすごい数字に繋がっている。
高視聴率の理由を、花子の親友でエキセントリックな華族の令嬢、蓮子を仲間由紀恵が演じているからとする記事が散見されるが、もちろんそれだけであるはずはない。蓮子はのちの白蓮、大富豪と政略結婚させられ、青年と駆け落ちする実在の歌人がモデルであり、ドラマチックな展開が期待される登場人物である。それを “ 非日常 ” の雰囲気漂う仲間由紀恵が演じるのは、ドラマに欠かせない華と盛り上がりを与える。しかしそれは「朝の連ドラ」の王道の文脈ではない。
毎朝、15分ずつ流れる朝ドラのベースは、日常性だ。そこにどれだけ非日常的なスパイスを利かせられるか、そのバランスこそが最も重要なのだ。毎朝毎朝「まあ、メアリー!」と言っているだけの凡庸さに陥りがちではあるが、生きるか死ぬかのサスペンスを毎朝15分ずつというわけにはいかない。メタフィクションに流れれば高齢の視聴者は離れる。普通のお嬢さんで、ちょっとだけ危なっかしい雰囲気の吉高由里子が、夢見がちでとっぱずれたところがあっても教師や翻訳者というジミな仕事が勤まるように成長する花子 = アンであるから、毎日観ていられる。
そして特筆すべきは、演出のきめ細やかさである。フツーのドラマのフツーのセリフが間と演出で泣ける、ということがある。それは自身が何者であるかを把握し、よい脚本を得た NHK 「朝の連ドラ」の余裕、とも言えるレベルに達している。こうなると、今や無敵であるのかもしれない。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■