僕が子供だった頃にはMTVもインターネットもなかった。YouTubeで気軽にミュージシャンの演奏を見ることも、音楽をダウンロードすることもできなかったわけである。今と比べればなんて不自由な時代だろうということになるが、ミュージシャンにとってはそれなりにいい時代だったかもしれない。ユーザーが所有できた音楽メディアはほぼレコードだけで、アルバムは高いから、何を買うかにみな頭を悩ませた。その分、買ったレコードは擦り切れるほど聴いた。今でも僕の頭の中には、最初の曲から終わりの曲まで言えるアルバムが何セットか入っている。
ザ・バンドはロビー・ロバートソン(ギター)、リヴォン・ヘルム(ドラムス)、リック・ダンコ(ベース)、リチャード・マニュエル(ピアノ)、ガース・ハドソン(シンセサイザー・オルガン)の5人からなるバンドで、1968年発売のファースト・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を持っていた。その後、1972年発売のライブアルバム『ロック・オブ・エイジス』を買った。当時はブリティッシュ・ロックの全盛期だった。というよりビートルズやローリングストーンズ、ザ・フー、レッド・ツェッペリン、クリーム、ジェフ・ベック・グループ、ディープ・パーブルなどの洗礼を受けたリスナーには、アメリカン・ロックはどこか物足りなかった。演奏も歌詞も明快で、間奏も決められた時間できっちり終わっており、パッケージ化されたロック商品といった感じだったのだ。
しかしザ・バンドは違っていた。ウィッシュボーンアッシュのようにイギリスやアイルランド民謡を取り入れたバンドもいたが、たいていのブリティッシュ・バンドはブルースから強い影響を受けていた。ザ・バンドはカラリとした明快な音を出すという点ではアメリカン・バンドだったが、彼らの音楽にはフォークやカントリー、R&Bやジャズがミックスされていた。なにより彼らの音楽は大らかで自由だった。リヴォン、リック、リチャードの三人がボーカリストで、各自のメイン楽器のほかに、マンドリンやアコーディオン、バイオリン、サックスなど様々な楽器を弾きこなした。音楽ジャンルを超えたプロのミュージシャンたちという雰囲気だったのだ。
1978年にザ・バンドの解散コンサートを記録した映画『ラスト・ワルツ』が公開された。監督は『タクシー・ドライバー』が大ヒットしたばかりのマーティン・スコセッシで、当時はなぜスコセッシが音楽映画の監督を、という感じだった。しかし高校生だった僕は映画館に行った。ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォータース、エリック・クラプトン、ヴァン・モリソン、ニール・ダイアモンド、ボブ・ディランなど豪華なゲストが出演していたからだ。写真はともかく、70年代には動いているミュージシャンの映像は貴重だった。マディ・ウォータースやヴァン・モリソン、ニール・ダイアモンドなどは、当時ですらすでに過去の人だった。まるで活動映画を初めて見た人のような言い方になってしまうが、動いて演奏している彼らを見たかった。
『ラスト・ワルツ』は子供心にも衝撃的だった。映画の冒頭の方で、スコセッシがバンド・リーダーのロビー・ロバートソンにインタビューするシーンがある。なぜ『ラスト・ワルツ』と題した解散コンサートを開くのかと聞いているのだが、ロビーは「十六年間オン・ザ・ロードで音楽をやってきた。八年間は売れないどさ回りで、八年間は売れっ子としてスタジアムやアリーナでのコンサートだ。だけどもう十分だ」という意味のことを答えていた。
僕はロビーが自分が想像していたよりもずっと若く、恐ろしく神経質そうなのに驚いた。アルバムで聴いている限り、ザ・バンドのメンバーはのんきな田舎のオヤジたちという印象だった。当時レイドバック(くつろいだ音楽)と呼ばれる音楽スタイルが流行っていたが、ザ・バンドもそのような音楽の一つだと思っていた。解散コンサートとはいえ、リラックスした楽しい映画なのだろうと予想していたのである。しかし映画を仕切っていたのは追い詰められた表情の、目が据わったロビー・ロバートソンだった。僕は作品の印象とその背後にいる創作者が、必ずしもイコールではないことを初めて痛感した。
ビートルズが初期はジョン・レノン・バンドで後期がポール・マッカートニー・バンドになるように、ザ・バンドも初期はリヴォン・ヘルム・バンドで後期はロビー・ロバートソン・バンドになる。『ラスト・ワルツ』から三十年以上の時間が経った今、僕たちはあのコンサートがロビーによって強引に開催されたことを知っている。他のメンバーは解散に反対だっのである。リヴォンはザ・バンドをライブ・バンドだと考えており、今までどおりコンサート・ツアーを続けたがった。しかしロビーはライブにはうんざりだった。スタジオにこもってじっくり音楽を作る生活に憧れていた。
Dry your eyes, take your song out
Well, it’s a new – born afternoon
And if you can’t recall the singer
Can you still recall the tune
涙を拭いて、君の曲を取り出しなよ
そう、また新しく生まれ変わるための午後だ
もしシンガーの名前を思い出せなくても
あのメロディーは思い出せるだろ
(Dry your eyes 作詞・作曲 ニール・ダイアモンド&ロビー・ロバートソン)
『ラスト・ワルツ』開催当時、ロビーはすでに解散後の音楽活動を考え始めていた。ティン・パン・アレーの伝説的ソング・ライター、ニール・ダイアモンドといっしょにアルバムを作っていた。ニールの〝Sweet Caroline〟は誰もが一度は聴いたことがあるだろう。〝Dry your eyes〟はロビーとニール・ダイアモンドの共作で『ラスト・ワルツ』で演奏された。ニールと他のメンバーとの関わりは薄く、ロビーが独断で解散コンサートに呼んだのだ。この曲の歌詞には当時のロビーの心境が反映されていると思う。シンガーの名前を思い出せなくても、メロディーだけ思い出せば良いと歌っている。ロビーは作詞・作曲家兼プロデューサーという、音楽業界の黒子として活動したかったのである。
『ラスト・ワルツ』のトリを務めたゲスト・ミュージシャンはボブ・ディランである。よく知られているように、ザ・バンドは長い間ボブ・ディランのバック・バンドだった。ディランがアコースティックからエレキギターに楽器を変え、観客から強烈なブーイングを浴びた時にバックにいたのはザ・バンドである。1966年にディランはバイク事故を起こし、一時期音楽シーンから姿を消すが(死亡説も流れた)、この時ディランと密かにレコーディングを行っていたのもザ・バンドである(後に『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』として発売された)。
ディランとザ・バンドのメンバーが住んでいたウッドストックの家は、外壁がピンクに塗られていたのでビッグ・ピンクと呼ばれていた。ザ・バンドのファースト・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』はこの家で録音された。ディランは『アイ・シャル・ビー・リリースト』を提供し、さらにアルバムのジャケットも描いた。ザ・バンドのメンバーは五人だが、ジャケットには六人が描かれている。ディランが自分を六人目のメンバーだと考えていたからだとも言われる。
May you build a ladder to the stars
And climb on every rung
May you stay forever young
Forever young, forever young
May you stay forever young.
君は星々に達する梯子を作り
一段一段昇ってゆく
君がいつまでも若くありますように
いつまでも若く、いつまでも若く
君がいつまでも若くありますように
(Forever young 作詞・作曲 ボブ・ディラン)
『ラスト・ワルツ』で白いソフト帽をかぶったディランが登場してくると、ステージの雰囲気がガラリと変わる。ディランが最初に歌うのは、『旧約聖書』の「ヤコブの梯子」をモチーフにした〝Forever young〟である。ディランが書いた歌詞の中で、最も美しい作品の一つだ。この曲が始まると、まるでディランのコンサートが始まったかのような雰囲気だ。ザ・バンドのメンバーも、ほかのゲストの時よりもリラックスして演奏している。それはディランを始めとするミュージシャンのバックバンドとして活動し、やがてオリジナル曲を作って自分たちも表舞台に立とうとしたこのバンドの出自をよく表しているように思えた。
〝The Band〟という無色透明な名前に表象されているように、このバンドには最後まで強烈なスター性、カリスマ性が感じられなかった。ビッグ・ピンクの地下室で起こっていたアメリカン・ミュージックの良質の混交(ミクスチャ)そのものが、ザ・バンドだったような気がするのである。ボブ・ディランの最良の季節も、その多くがザ・バンドとともにあったと思う。
Virgil Kane is the name
And I served on the Danville train
‘Till Stoneman’s cavalry came
And tore up the tracks again
In the winter of ’65
We were hungry, just barely alive
By May the 10th, Richmond had fell
It’s a time I remember, oh so well
ヴァージル・ケーンが俺の名前
ダンヴィル・トレインで働いていた
ストーンマンの騎兵隊がやってきて
また線路をぶっ壊してしまうまでは
1865年の冬
俺たちは腹ぺこで、ようやく生きていた
五月十日に、リッチモンドが陥落した
あの時のことはよく覚えている、ああ、よく覚えているとも
The night they drove old Dixie down
And all the bells were ringing
The night they drove old Dixie down
And all the people were singing
They went, “Na, na, la, na, na, la na na “
奴らが制圧したオールド・デキシーを行軍した夜
すべての鐘が鳴り響いていた
奴らが制圧したオールド・デキシーを行軍した夜
人びとはみな歌っていた
〝ナナラナ、ナラナナ〟と
Back with my wife in Tennessee
When one day she called to me
Said, “Virgil, quick, come see,
There goes Robert E. Lee!”
Now, I don’t mind chopping wood
And I don’t care if the money’s no good
You take what you need
And you leave the rest
But they should never
Have taken the very best
女房とテネシーに戻った
ある日彼女が俺を呼んで言った、
〝ヴァージル、早く来て見なさいよ、
あそこよ、ロバート・E・リー将軍が行くわ〟
今や、俺は木こり仕事が苦にならなくなった
もし賃金が安くても気にならない
必要な分を使い
あとはほおっておく
でも奴らは決して
最良の部分を奪えやしない
(The Night They Drove Old Dixie Down 作詞・作曲 ロビー・ロバートソン)
『オールド・ディキシー・ダウン』(The Night They Drove Old Dixie Down)は、ザ・バンドならではの曲だと思う。舞台は南北戦争当時で、南軍側の男の心理を歌った曲である。カントリー・ソングならともかく、ロック・バンドでこのような歌詞の曲を作ったバンドは他にない。アメリカは南北戦争を経て本当の意味での独立国の道を歩み始めたわけだが、それによって古いアメリカの宝もまた失われてしまったのだとこの曲は歌っている。
作詞・作曲したロビー・ロバートソンはカナダ人である。というよりザ・バンドはリヴォン・ヘルムを除いた四人がカナダ人で、実質的にカナダのバンドだった。映画『イージー・ライダー』で使われヒットした〝The Weight〟など、ロビーが作った曲にはアメリカ人よりもアメリカ的な心を歌った曲が多い。映画館で見た時は気づかなかったがDVDで見直してみると、ロビーはカナダ国旗の前でスコセッシのインタビューを受けている。アメリカン・ミュージックへの憧れと同化、そしてそれらを客観的にとらえる醒めた視線がザ・バンド独自の音楽を作り出していたように思う。
外賀伊織
■The Night They Drove Old Dixie Down from the Last Waltz ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■