銀二貫
NHK
木曜時代劇(放送終了)
なんとなく惹かれるものがあって、観ていた。その魅力は何だったのだろう、と終わってから考える。数字はあまりよくなかったようだが、ドラマとしては前半の方が面白かった。10歳のときに父親が仇討ちで斬殺され、銀二貫と引き換えに商人に救われた松吉の物語だ。武士の子が一人前の商人になってゆく成長物語であり、その身分の落差からくる葛藤がドラマになり得ていたと思う。
松吉役の林遣都は、繊細で問題を抱えた少年の雰囲気で、たぶんその危うい風情が魅力だったと思う。透明感のある傷ついた少年は現代的ではあるが、どんな時代にもそういうキャラクターはいただろうと思える。昔の人間だから骨太でニブい、ということは必ずしもあるまい。
松吉の将来の恋人となる真帆の幼少期を芦田愛菜が演じる。で、おしゃまなこの少女の躍動感が後半に失われてから、ドラマの魅力が減じたことは否めない。大火で行方不明となり、火傷を負って別人として生きてきたとはいえ、文字通りのまるで別人だ。苦労を重ねた女性と熱心な寒天商人との結婚話は、おしゃまな少女と傷ついた少年とのやりとりほどには緊張感がない。
そして回が進むにつれ、物語の予定調和がはっきり見えてしまう、というのも少しがっかりする。先のわからないドラマの期待感が失われ、その代わりに商人の気概、人生訓がくっきり輪郭を示す。それは悪くはないし、商人に大切なものは「始末、才覚、神信心」と知れば、学習したという感を与えないこともない。が、それは学習「した」という完了形だ。ドラマの醍醐味は「これからどうなる」というサスペンス状態にある。
時代劇が単なるチョンマゲを結った現代劇になってしまっている、というのには、さんざん文句を言った。しかしドラマにはそれぞれ「狙い」というものがある。史実に沿い、歴史の重みを感じさせなくても、その時代に固有の価値観や雰囲気を捉え、それをその「狙い」に結びつけることができていれば、ドラマとしては成功である。少なくとも登場人物たちがチョンマゲを結っていることに必然性はある。
林隆三が亡くなったことで、かつてのNHKドラマ「天下御免」を思い出した。フィルムが高価で上書きして使っていた頃のもので、もう観ることはできないそうだ。大昔のリアルタイムでも最後の数回しか観られず、最終回はひどく残念だったことを鮮明に記憶している。林隆三も中野好子も、その数回だけ観た「天下御免」で名前を覚えた。
歴史上の平賀源内があんなふうだったとは、もちろん誰も思うまい。しかし山口崇の平賀源内の、あの目の輝き。それは何にも増して説得力があった。ドラマのわくわく感は、江戸時代にもあり得ただろうわくわく感として視聴者を魅了したが、それは何よりその時代のテレビのわくわく感に他ならなかった。ただのテレビドラマが、あのわくわくするテーマソングとともにこんなにも長く視聴者の記憶に残ることを、フィルムを上書き消去した制作スタッフの誰がいったい予想しただろう。
「銀二貫」をなんとなく観ていたのは、タイプは違えど林遣都の危うい透明感が “ 若さ ” そのものとして、また芦田愛菜のこまっしゃくれぶりが「天下御免」のわくわく感、平賀源内のあの目の輝きに一瞬、重なったからかもしれない。ああいうものはもう観られないのか。残っていないだけに、よけい素晴らしかった気がしているのだろうか。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■