穂村弘の連載「現代短歌ノート」に「賞味期限の歌」が集められている。
わが残生それはさておきスーパーに賞味期限をたしかめをりぬ 潮田清
という案配。何を持ってきても文語でまとめるというのは、必ずしも今の短歌で普遍ルールではないのだろうが、門外漢には斬新だ。頭とお尻が型にはまって、真ん中は自由。短歌って、いいもんですな。そもそも型の中に感情、抒情を込めるわけだから、このかたちでいいのだろう。形式美と切迫感、切実感は背反するとはかぎらない。
四百円の焼鮭弁当この賞味期限の内に死ぬんだ父は 藤島秀憲
なんとなく斎藤茂吉を思い出した。型は当然、本歌というかたち、プレテキストとしても表れるわけで、それには四百円にせよ賞味期限にせよ、プレなるものとのギャップがあるのが効果的だ。
ところで「賞味期限」といえば、「時間」だ。短詩系文学での時間軸というと「季語」だ。季語を用いると、季節のめぐりで形成された世界のしかるべき場所に、作品が貼りつく感じで安定感が出る。ときに出過ぎる。「賞味期限」というのは、春とか秋とか、特定の時期ではない。ある「期間」であり、そこに人間の生活、切迫感が表れる余地が出てくる。
10分後賞味期限が切れる肉冷凍庫に入れて髪乾かす 田中有芽子
という具合に。
その隣に原武史の連載「皇后考」がある。このあたりのページの安定感は得難い。では、短歌雑誌でも読めばそれでいいか、というと、それはそれで安定し過ぎて無為な感じがする。つまりこの、過渡期としか言いようのない、何を読んだらいいのか茫漠とし、呆然としてしまう状況下で、見出された安定感の源を問うことが多少とも意義がある、ということだ。
つまりは小説誌、たとえばこの群像で、今、小説に欠けているもの、欲すべきものが何かということを意図せずか意図してか、示唆しているというわけである。その小説に備わっていればいいのに、と思える第一は、型である。純文学にも型が必要だ、と言うと誤解を招くかもしれない。型の意識が必要だ、と言えば正確だろうか。型を意識し、そこに嵌めてゆくのがいわゆる大衆文学。型を意識しつつ、それをじわじわ侵してゆくのが純文学性というものである。
それから、日本。純文学であるなら、日本語で書いているということの意味を頭の隅では常に考えているはずだ。そこしか強調するところがないと、現代詩みたいなものに接近していってしまうが、それは言語的ではあっても日本語的ではない。いやしくも小説であるなら、日本というものを把握した上での言語、すなわち日本語で書かれるべきだろう。
史実は、それ自体が小説に必須はものではないかもしれない。取材はいつだって手段に過ぎない。我々が読みたいのは史実に匹敵し、それと同じ強度を持つものだ。それは恐らく、史実の解釈の強度からもたらされるものに違いあるまい。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■