有吉佐和子の没後30年特集である。新たに刊行される「花ならば赤く」の抄録が掲載されている。特集には「“ 不朽 ” ということ」というサブタイトルが付いているが、確かに古びていない。今でも十分に楽しめる。エンタテインメントに属すると考えられる作家でこういうことは、非常にめずらしいのではないか。それはすなわち、エンタテインメントの枠に収まらない要素がある、ということだろう。ではそれが “ 不朽 ” なのだろうか。
有吉佐和子をエンタテインメントに分類させるのは、まずしっかりした無駄のないプロットだろう。そして社会的視点。心理は個々の内で堂々めぐりすることなく、社会的な鏡に映されるかたちで手渡される。読者はだから、そのすべてにうなずくことができるのだ。
「花ならば赤く」の抄録は、化粧と化粧品の話である。有吉佐和子は他の作品でも、女性の化粧を「武装」と述べている。化粧の美しさは猛々しさであり、化粧を落とせば女は醜くなるのではなく、無防備になるのだ。男たちが考えるように、男の気を惹くために「化ける」のではない。化粧をいくら厚くしても、それはその女の本質をくっきりと露わにするものである。ならば確かに、それは社会に対する女の宣戦布告だ。
今、巷で話題のそっくりメイクは、ではどうだろう。有名人の誰彼に似せて別人のようにする化粧は、有吉佐和子の時代にはなかった。現象面でのこの遅れをもって、古びた、と言えるだろうか。
有吉佐和子の小説が古びない、とは今日に至る現象をすべて網羅し、予言しているからではもちろんない。そこで示されている原理がいまだ生きている、ということに他ならない。化粧は女の本質を露わにするものだ。別人に化けるメイクを施す女は、別人になりたがっている、ということだ。それが本質であるとも、本質がないことが本質であるとも言える。考えてみれば当然だ。化粧は、そのように見られたいという当人の願望の投影なのだから。
この考えてみれば当たり前のことを、言われなければ気づかない男たちが拵えている社会に、有吉佐和子はごく真っ当な直球を放り続けた。それは屈折することのない直球だったが、思い上がった男たちには意外な球もあったろう。「花ならば赤く」では、女が自殺したのをすっかり自分のせいだと思っている男の噂をしつつ、「人が死ぬ理由はそんなに単純じゃない」と言う。男なら当たり前のことが、女は違うのではないかと思うのは、単なる幻想だ。
有吉文学には幻想はない。それが最大の特徴かもしれない。だからこそ戦後社会のあり様を端的に捉え得た。高度経済成長の勢いに熱くなった男たちの幻想から距離をおくことができるのは、これも当然のことだが、女だけであった。
幻想の代わりに、そこにあるものは古びようのないある原理だ。女が女であるかぎり持っている強さ、生命感が結局はすべてを呑み込んでゆく。有吉佐和子はその思想を岡本かの子から受け継いだ、と述べている。“ 不朽 ” というのは少しそぐわない。“ 朽ちる ” という概念とは端から無縁の、明々白々な原理である。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■