山際恭子さんのTVバラエティ批評『No.038 俺のダンディズム』をアップしましたぁ。テレビ東京さんで放送されているドラマ仕立てのバラエティ番組です。主演は『半沢直樹』で半沢の親友・近藤を演じた滝藤賢一さんです。『たべるダケ』の石橋杏奈さんも出演されています。ダサイサラリーマンが『ダンディになりたい』と欲望して、悪戦苦闘するコメディタッチのバラエティドラマです。
山際さんは『万年筆なり、靴なりを買い込むことでステップアップができるなら、なんであれ苦労はない・・・安易に満たされる欲望については、その満足は一瞬であるのが普通だが、それをひっきりなしに連続させることで人生の時間を埋めて行きたい、という欲望もあり得る。もしその欲望が強く、人をして呆れさせ、黙らせるぐらいのものならば、それはそれで感心できる』と書いておられます。その通りですね。何にお金を使うのかはその人次第。ただま、唖然とするほど欲望が強く深ければ、ブランド服やバック好きでも車好きでも、他人が「ん?」と振り返るような域に達することもある。それがなければごく普通の消費者。オシャレしているつもりが、「単なるブランド好きだよね」と冷や水を浴びせかけられたりするわけです。
物書きの中にも万年筆はモンブランだぁ、原稿用紙は満寿屋だよねーと過剰に文学的雰囲気(アトモスフィア)を強調する人がいます。文学における一種のブランド志向です。この手の御仁、圧倒的に詩人に多い。そういふ詩人はビミョーに知的、つまり小狡いですから素直な文学ファンじゃない。折に触れて自分は特権的文学者なんだよーとほのめかしながら、僕は、私は疎外されている、孤独だ苦しいあー文学は大変だと負のベクトルを加えることを忘れない。それにより自分でプチ躁鬱状態を作り上げ、なんとなく悲しげな詩にササッと仕立てあげる。それが詩では鉄板表現の抒情詩だと思い込んでいる。短い詩だからその程度で誤魔化せるんですね。でもちゃんと読んでも悲しげな理由はわかりません。なにせその場限りの〝気分詩〟なんですから(爆)。
谷川俊太郎さんを読めばすぐに理解できることですが、抒情詩と気分詩はまったく質が違います。抒情詩は詩の世界でほぼ唯一の〝一般流通商品〟になりえます。文学的価値と金銭的価値はイコールではないという原則論とは別に、石川は抒情詩は「商品」だという意識で書いた方が良いと思います。抒情詩=「私の気分」と捉えていたのではダメですね。同じ抒情表現に見えるかもしれませんが、気分詩には人間全般に内在する抒情への切迫がない。基本的には僕や私にのみ意味のある自己愛作品です。また茫漠とした気分表現であることを隠すために、たいていは目眩まし的言語操作が加えられています。でもそれを除去するとほとんど何も残らない。俳句や短歌でも同じですが、気分詩、うんざりするほど詩の世界に溢れております。
山際さんは『ウォーターマンの万年筆を持っただけで知的な人種になった気がするぐらいの無邪気な輩は、知性とは最もかけ離れたところにいるのだが。それに気づかないでインテリや文化人を気どった者勝ち、という風潮そのものを嘲笑えるぐらいには、この社会も成熟してゆくとは思うけれど』と書いておられます。文学は文字が一人歩きする世界です。気分詩くらいでは読者は獲得できません。自分の気分は他人にとっても価値のある特権的なものだと勘違いしているような〝僕ちゃん作家〟は、本物のブランド好きにもまともな作家にもなれないでしょうね。
■ 山際恭子 TVバラエティ批評『No.038 俺のダンディズム』 ■