俺のダンディズム
テレビ東京
水曜 23:58~
どこかで見た人だ、と思った。しかもこれと近いようなシチュエーションで。そうだった。「半沢直樹」に出てきた近藤さんだ。神経を病み、追い詰められた表情が印象的だったサラリーマンだ。もっとも「半沢直樹」は出る人すべてが印象的で、まことに役者が得するドラマだったのだが。滝藤賢一は連ドラ初主演で、「ドッキリかと思った」そうである。
このドラマの主人公、段田一郎も、近藤さんと同様に(?)追い詰められてるっちゃ、追い詰められている。「銀行に残りたい」という切迫感に対し、「ダンディになりたい」という欲望がパロディのようでもあるけれど、人生においては本当のところ、どっちも大差ないかもしれない。ただ一つ言えるのは、どっちにしても男は何かの欲望を持たねばならないらしい、ということだ。
その欲望が物質で満たされ得る、というところが「俺のダンディズム」の笑えるところでもあり、同時にテレビ的なところでもある。万年筆なり、靴なりを買い込むことでステップアップができるなら、なんであれ苦労はない、と思うのが普通の感覚ではある。だからこれはドラマではなくて、広告の一種だ、と考えるのが普通の教養人というものだろう。
しかし、我々は実直さや良識のみにて生きているわけではない。少しいいものを買って気持ちよくなることもあれば、カッコつけたくなる瞬間もある。安易に満たされる欲望については、その満足は一瞬であるのが普通だが、それをひっきりなしに連続させることで人生の時間を埋めて行きたい、という欲望もあり得る。もしその欲望が強く、人をして呆れさせ、黙らせるぐらいのものならば、それはそれで感心できる。
そんな覚悟の決まった人はコレクターと呼ばれる。彼らはしかし、ブランド物と呼ばれる大量生産品には見向きもしない。やれウォーターマンだ、ロレックスだと高級感によるマーケティングに引っかかって悦に入るというのは、無邪気な消費者に過ぎない。もちろん現代市場社会に生きる私たちは皆、無邪気な消費者の一面を有しているわけで、だからこそ、それで全面的にアイデンティファイされたマンガ的な存在を嘲笑うこともできる。
「山内一豊の妻」という話がある。妻が一世一代の決意をして夫に駿馬を買い、その馬が君主の目に留まって一国一城の主に取り立てられるきっかけとなった。覚悟のほどを思い知らされる買い物、というものはあるだろう。逆に言えば、どんな買い物を自慢するかによって、その人間の質と程度が知れる、ということだ。金額だけからすれば、我々庶民に手の届くものなど、たかが知れている。
無邪気であることは悪いことではなくて、そういう登場人物を眺めているのは気楽でいい。職場のマドンナに「ダンディだ」と褒められるためだけに散財するというなら、たかの知れた散財であって不思議ではない。
ただ、「たかが知れている」ことが「分を知る」ことにならないのが、今の世の中だ。ウォーターマンの万年筆を持っただけで知的な人種になった気がするぐらいの無邪気な輩は、知性とは最もかけ離れたところにいるのだが。それに気づかないでインテリや文化人を気どった者勝ち、という風潮そのものを嘲笑えるぐらいには、この社会も成熟してゆくとは思うけれど。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■