『インビジブル・ウォー』 ジュリア・フォーダム
まあ、カタカナで書くと間抜けだけれど、ジュリア・フォーダムという不思議な声の歌手がいて、昔はよく聞いて結構、癒されたような記憶がある。母性的というと嫌らしくて、野太くて温かい低音から透明感のある高音まで幅広い表現力があり、なおかつまるで抱き込まれるように響くという一貫した特徴がある。生まれつきの声質に恵まれる、ということは絶対的にあると思う。
シンガーソングライターは歌詞から痩せていく、というのは本当だ。ジュリア・フォーダムの CD はいつしか買わなくなったが、ファースト・アルバム「ときめきの光の中で」には、タイトル曲をはじめとして文字通り、最初に世界と対峙したようなときめきの感覚が声にもサウンドにも、そして歌詞にも溢れている。ヒット曲「ハッピー・エバー・アフター」は、大地そのもののような声の響きにアフリカの緑のジャングルと空の青が目の前に広がる錯覚をおぼえる。
しかしこういった「環境問題」が、ソングライターとしての彼女の根幹を成しているかというと、そういうわけではないらしい。その声質と、大地の自然を表す民族音楽的なサウンドがぴったりフィットしたのは、偶然の産物だったと思われる。
世界と出逢ったばかりの赤ん坊のような感覚は貴重だが、ずっと保つものではない。長い歳月を経て資質を見極めた後、それは姿を変えて必ず戻ってくるのだが、デビューしたからには他者との関わり、社会での立ち位置を定めるため、やらなくてはならないことが多くあるだろう。ラブソングであったり、メッセージソングであったりするそれが、まずはファンがそのアーチストに対して持つ安定したイメージとなる。
ファースト・アルバムに入っている「インビジブル・ウォー」は、ジュリア・フォーダムの立ち位置を明確に規定した曲である。
わたしたち 見えない戦争をしているみたい
ピリピリして 無言でカウントを付けている
この見えない戦争で わたしは日々、あなたを失ってるみたい
以前のようになることを 互いに望みながら
(訳・筆者)
相手と自分とは、まったく対等、同質であるようだ。自身を鏡に映したかのような存在。それゆえにぶつかり、傷ついて血を流す。そういうときの解決方法は一つしかない。距離をとること。
逃げてしまいたい わたしはまだ愛している
遠く去って いつでも愛している
はるか離れて 時がすべてを癒すまで
(訳・筆者)
心理的に距離をとるためには物理的に離れるしかない、ということは確かにある。ただ、成熟した男女の場合、愛し合っていてもそこには自然な距離感があるし、そもそも愛し合っているなら戦争状態にはならない。むしろ男女の切なさとは、一緒にいるのにどこかすでに隙間風が、ということが多い。愛し合っているのに傷つけ合い、無理矢理に引き剥がされなくてはならない、という歌詞にはやや同性愛的な、あるいは母子のような過剰な密着、もしくは依存関係を思わせる。
同アルバムには「思い出のコクーン」という曲も収録され、繭に包まれるような関係への指向性もまた幼さを感じさせる。が、それが彼女の透明感のある、しかも温かな声で歌われると、いや、まさしく私たちの望みはそれなのだ、と思わざるを得ない。結局のところ音楽は快楽であり、快楽はすべての理屈を乗り越える。
小原眞紀子
■ 『インビジブル・ウォー』 ジュリア・フォーダム ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■