明日、ママがいない
日本テレビ
水曜日 22:00~
議論を巻き起こすというのも、ドラマの仕事のうちではある。テレビドラマの内容が是か非かの議論などたいていは空論に過ぎないが、放映で被害を受ける、それも子供であるとなると、話が違ってこよう。
養護施設でたくましく生きる子供らを描いたドラマだが、熊本の慈恵病院から放送中止の申し入れがあったことは広く報道された。「こうのとりのゆりかご」、いわゆる赤ちゃんポストを運営する施設であり、ドラマでは芦田愛菜演じる主人公が「ポスト」と呼ばれている。他にも、鈍器で家族を傷つけた母親を持つ子供が「ドンキ」、親が大福を持って施設に頼みに来たという子供が「ダイフク」と、ちょっとドキッとする、より施設サイドで言えば胸を締めつけられる、尊厳を失わせるようなあだ名で呼ばれている。
しかし、私たちはなぜ、このあだ名にドキッとするのか。あだ名そのものは、普通の学校でもあるようなものだし、もっと変なのだってある。つまりはドラマに登場する子供たちが、本名で呼ばれる家庭を持たない、ということが問題なのだ。そのあだ名にアイデンティファイしてやろうという意志が感じられる。それは普通の感覚からすると、悪意に相違ない。だからこそ現実にも、悪意をもって「ポスト」と呼ばれた、という〈被害〉が発生する。
ドラマの思想としては(思想があるというだけでも、テレビドラマとしては立派だと思うが)、そこにいる子供たちが自らそのような名を選んだ、と言えるほどたくましくなれ、ということだろうと思う。
施設に来たときのことをアイデンティティとする、というのはそういうことで、「私たちの方が親を捨てたんだ」というキャッチフレーズを裏付けるという意味では、これらのあだ名は必要な表現だ。
私たち物書きは、やはり表現する側の肩を持ってしまう。親に捨てられるということがすでに子供にとっては被害だが、被害者をいつまでも被害者のままにしておくべきではない。そこから本当に立ち上がるには、被害から回復するのではなく、〈被害〉を逆手にとるぐらいの強さが必要なのだ、という制作者の意図も、すごくよくわかる。その過程において、あえて被害を引き受ける、傷口に塩をなするようなこともある、ということだ。
が、それをしてもいいのは、それをしようという覚悟ができた者だけだ。ドラマの中の子供たちは「ポスト」ちゃんの薫陶を受け、そのように教育されていく、ということだろう。だから最後まで観てくれ、という主張も、よくわかる。問題はそこまで行き着く途中で、必ずしもそんな覚悟の用意もなく、また強要されるいわれもない現実の子供たちに与えてしまう影響である。病院側が言う通り、施設の現状が一般に知られてない以上、私たちはそれについて判断の材料を持たない。とすれば、一般の学級を扱ったテレビドラマの佳作『女王の教室』と同様に考えるわけにはいかないのも確かだ。
さて、私たちが虐待と呼び、ショックを受けるのは、子供たちがモノ扱いされることだ。理想や理念によって扱われず、里親候補に尻尾を振るペットのようであれ、というのもそうである。ではしかし、私たち自身は社会においてモノ扱いはされていないのか。私たちの子供たちは、私たちに尻尾を振らされてはいないのか。施設出身の子供たちが「家庭」への幻想を持たないことで、私たちより強くなる可能性は十分ある。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■