現代思想のさまざまな概念をわかりやすく説明したという触れ込みである。『14歳からの哲学』の類品とみるべきだろうか。「14歳から」でも中学入試の頻出となったわけで、「12歳から」となると、狙い澄ましている感がある。そういう書籍として進学塾などから指定を受けると、ロングセラーとして確実な売り上げが見込める。
良識ある中学校で、実際に出題されるかどうかは別として、進学塾の国語のテキストでは、現代思想のレヴィ・ストロースやらの名前が散見する文章までもが並んでいる。デリダもエレーヌ・シクスーももし出たら、まるで見覚えがないよりは、どこかで見たことがあるという方が有利だ、と考えられても不思議はない。
とはいえ現代思想の用語であれば、それが指し示す内容を漠然とでもイメージできなければ意味がない。12歳でそのことを可能にすることを目指すというのは、チャレンジングである。なぜならそれは実のところ、年齢の問題でなく、思想の最もプリミティブでエッセンシャルな概念を抽出することに繋がるからだ。
そして本書では残念ながら、それについてはまったく達成されていない。と言うより達成しようという意志がそもそも感じられない。それこそ極めて漠とした意図のもと、初心者向けの現代思想の解説書が書かれ、出版にあたり編集者の思いつきで「12歳からの」というキャッチコピー紛いのタイトルが付された、としか思えない。それでもきっとこのタイトルゆえに、私立中学を目指す小学生の本棚に並ぶことだろう。
本棚に並んだとて手に取られなければ意味はないが、この本が小学生の手に取られることも、またその必要もないだろう。池田晶子の『14歳からの哲学』をすごい名著だと思っているわけではないが、少なくともそこには、物事をその根っこのところから真正直に考えていこう、という姿勢があった。子供たちにも学ばせたい、また学べるはずであるものは、くだらない業界用語ではなく、まずは大人が示す姿勢のはずだ。その姿勢をこそ「哲学」といい、そこで得られる確信を「思想」と呼ぶということを抜きに、何を教えられようか。
子供がまわらぬ舌で、デリダだのドゥルーズだの言うのを見たい者はいない。もっとも子供だからいけないわけでなく、まわらぬ舌で哲学用語を振り回すだけの、レジュメを書くしか能がない大学教員とて同じだ。哲学だの思想だのには、それを育む土壌となった経験と認識があるはずである。それを実感をもって追体験しなくては、「理解した」ことにはならない。こましゃくれた子供や、言葉いじりだけが得意な大人にとっては、思想・哲学とは最も苦手な科目であるはずだ。
本書は「現代思想の面白さ」を伝える、とある。その内容を見るかぎり、現代思想の用語をいじり、それらしき文章を書き、わかった気になることの「面白さ」を著者が感じている以上、読者が誰であれ伝わるのでは、という無意味で脳天気、かつ無責任なきれいごとでしかない。思想の根本を感知する能力も、子供らが経験し得ることにそれを置き換えて伝えようとする熱意もない大人は、単なる特定ジャンルのオタクと呼ばれるガキに過ぎない。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■