あさのあつこ『バッテリー』のシリーズと共通点があるように思えて、その読者が手にとることが多いのではないか。著者の名前が平仮名というのも同じだし。が、それを期待すると、がっかりすることになる。
『バッテリー』と比較しての欠点をあげつらうことは簡単だが、そもそもの野球とサッカーとの違い、として捉えた方が生産的かもしれない。だいたい野球というスポーツは、それはそれは文学的なのだ。小説や映画で、野球をあつかった傑作の多いこと。マウンドで佇むピッチャーの孤独と矜恃、それを見つめるキャッチャーとの無言のやりとり、バッターの読みと計算、外野手や内野手の胸に去来する内省と、なんぼでも心理描写ができるのは基本、じっとしているからに他ならない。ずーっと走り回っているサッカーで、じっとりした表現なんかしてたら、隙を突かれてゴーーールってなことになりかねない。
農耕だの四季のめぐりだのとの関連が指摘される野球のゲームには、ウェットな抒情がのせやすい。だがしかし、文学、小説はウェットな抒情がすべてではない。ハードボイルド、乾いた文体、スピード感というものだって読者を喜ばせ得る。児童文学 + スポーツ = 『バッテリー』という図式がよろしくないのだ。小説としてスポーツを描くなら、そのスポーツの本質とそれに関わる人の思考がどう響き合うか、それによって文体が決まる。文体が決まれば、書かれる内容もぴたりと決まる。心理描写や細かい説明を削ぎ落とすことで緊張感と深みが出て、読者の思考を活性化させるということもある。
その意味でもちろん、この作品に注文がないわけではない。しかし子供に読ませることを前提に考えれば、何からでも学ぶことはある。大人が夢中になって読んでしまう『バッテリー』が子供には難解で、『サッカーボーイズ』シリーズが『バッテリー』攻略のためのトレーニングになる、ということは考えられる。
具体的には、多視点の物語を読むことに慣れさせるのにいい作品ではある。物語にのめり込むことができる一番簡単な方法は、主人公に共感し、一体化することだ。そのため子供向けの本は、子供を主人公とするが、さらにその主人公の視点からのみで一貫して書かれていると、その共感のモードのままで読み進めることができる。
視点が多数になり、様々な登場人物の立場からの記述が増えると、子供はまず混乱する。子供じゃなくたって混乱する人がいるんだから、しょうがない。多視点になっても、一つの作品であるかぎり主人公は存在するのだが、子供にはそれが見通せないので、主人公がたくさんいるように錯覚する。実際、野球と違い、サッカーは誰が中心なのかわかりづらいし。
そのときはまず登場人物をリストに書き出させ、それぞれの特徴をメモさせる。誰が中心なのか、探り当てるつもりで読ませれば、すぐに見つかる。そうなったら後の人物たちの視点は、主人公の考え方を補強するためのものだとわかる。さすれば、その複雑さ、多層性を楽しむことができるようになる、というわけだ。健闘を祈る。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■