村上春樹の新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が出ているが、あえてこの懐かしいタイトル『ライ麦畑でつかまえて』で挙げたい。そもそも『ライ麦畑でつかまえて』を知らない読者に、カタカナだらけの題を覚えさせることができるのか。
とはいえ、新訳は仕方ないかもしれない。我々が読んだときですら、野崎訳は少し古めかしかった。が、それで魅力が減じたかというと、むしろ逆だった。若者の感覚が昔も今も不変だと知ることで、その正当性を確かめられたものだ。
中高生にも、したがって今なら中学受験生にも読めない内容ではない。我々の時代には、大学に入学してからの「踏み絵」がこの『ライ麦畑でつかまえて』だった。読んだかどうか、そしてどう感じたか。そこで「人種」が分かれたように思う。
共感して熱狂するタイプ、共感するが醒めるタイプ、退屈だと思うタイプ、読んでないタイプ。学生時代というのは、さまざまな資質の者たちの坩堝にいるようなものだが、結局はその後の人生において、このタイプを異にする者同士が真に交わることはない気がする。『ライ麦畑でつかまえて』は、そんな作品なのだ。
この小説自体、自分とタイプを異にする「インチキ」な野郎どもや大人たちに対する反感、そしてほんのささやかであってもピュアで「感じのいい」ものへの共感によって成り立っている。ではこの主人公の少年、そして最良の読者、将来の文学者はどのタイプに属するのか。
退屈だと思ったり、読んでなかったりするタイプでないことは確かだ。が、熱狂するほど単純でもないだろう。「共感するが醒める」とは、その共感や反感が通過点だと認識しているということだ。だがそれは、通過しないこととは決定的に違う。
主人公のホールデン少年は感受性が強く、インチキだらけの学校社会に馴染めずに放校と転入を繰り返している。今の学校の寄宿舎も出され、それを親に告げられないまま一日、街を彷徨うという小説である。神経過敏な彼は病院に入っているらしく、そこでの彼の語りが若者言葉の口語体で表現され、ベストセラー、そしてロングセラーとなった。
最良の読者は主人公に深く共感し、だがそのままでは生きてゆくことはできない、どこかで「回復」しなくてはならないと感じるだろう。熱狂した若い読者、とりわけ素質のある若者が「醒める」瞬間とは多くの場合、サリンジャーのこの後の作品『フラニーとゾーイ』や、とりわけ『ハプワース16 一九二四』を読んだときだったと記憶する。その衰退と不毛に、これではだめなのだ、と直観したのだ。
次々と生まれ、成長してくる若い人たちに、一度は読んでほしい代表的な作品である。それは今も昔も変わりはない。たとえ村上春樹の新訳であっても。ただ年月を経て、感慨とともに思うのは、成長するというそのことの、奇跡にも似た難しさである。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■