詩を詠う(歌う、唱う、謡う、唄う…)というような表現があるが、「詩をうたう」ということを知るには、本作を聞くのがいい。
まず異質な感じを覚えるだろう。それからは曲ごとに様々な印象に変わる。ある曲では違和感になり、ある曲では真実味になる。「うた」を聞きながら「詩」のことばを聞き取るときに、それが起こる。ましてうたわれているのは谷川俊太郎だ。だれもが触れたことのある語感が、ある曲では高瀬”makoring”麻里子の声に結実し、ある曲では裂けるのだ。同じことはメロディにも言えるだろう。
たとえば「うそつき きつつき」は「詩」と「うた」が結実した曲だ。
「うそつききつつき」「うそをつきつき」「つきつつく」
元の「詩」はひらがな表記の言葉遊びの早口言葉なので、舌と歯の動きや声と息の響きをたのしむことが詩の味わいとなる。しかしそれだけは耳のたのしみを出ない。
DIVAの「うた」は木管の立つ森の雰囲気を伝える。makoringの声の透明感は木立に流れる空気のように、舌と歯に当たった息の破裂音はキツツキの嘴のように「見える」。「うた」に森を見立てる目のたのしみを添えるのだ。
一方で「数える」は、「うた」によって一部が裂かれた。
動物的な美醜のバギドウとボゴネラは、どこか遠くの地で遠い昔からある物語のように、いまでは無害化されている。この時間的空間的な隔たりは「詩」と「うた」の隔たりでもある。あるいは、鼓膜の内と外の隔たりである。DIVAの声でうたわれると、この詩を頭の中で口にする「わたし」の声はどこかに引っ込んでしまう。「わたし」と「詩」はそのぶんだけ離れる。「わたし」がバギドウでありボゴネラでありその語り部でもあるという地点から、遠いどこかの遠い昔のような距離にまで「うた」が遠ざけてしまうのだ。
DiVa新譜『うたがうまれる』同梱のブックレット。16ページ構成の小冊子になっている
どちらも外へと抽出された声である。詩が喉を持たない体だとすれば、読み手がその喉を整形する。そしてDiVaは一つの喉として詩をうたい、保存した。
「うそつき きつつき」は詩に喉ばかりでなく目を与えた。それは「詩の体」にぽっかりと開いた眼窩を見抜いたためだろう。目と声を得た「詩の体」は森に躍り出る。「数える」では「詩の体」を補う喉は整形できない。おそらくそれは元から不可能なのだ。「数える」を読み、うたえるとすれば、それは「わたし」の声だけだからだ。「わたし」の喉は「わたし」しか持ちえない。そして「わたし」は、一度「詩」を読み、うたう長さでしか存続できない生命だろう。再生不可能であるがゆえに、保存はきかない。
「数える」はDIVAによってうたわれ、その声は保存されているが、それははじめから「事後」である。「詩の体」はかつてあり、DiVaは喉を与えたが、「うた」が終わるとともに「事後」の彼方に遠ざかり、体から抽出された声だけが残った。
といって、「数える」が失われたわけでは決してない。声はたしかに「詩の体」がら発せられたものだ。隔たりは断絶ではなく、「わたし」は「うた」から「詩」へと時間を辿っていける。きっと二度目の鑑賞の後になるだろう。
「詩をうたう」というのは、そういう難しい試みである。「詩の体」と言ったが、詩人と歌い手が一致しないときには、往々にして起こりうることだろう。「詩の体」は詩人そのものでもある。しかし詩人の喉は必ずしも「詩」の喉ではないだろう。「詩をうたう」とは喉を探すことと同義なのだ。
星隆弘
■ DiVa 『さようなら』 詩・谷川俊太郎 曲・谷川賢作 ■ (アルバム 『詩は歌に恋をする-DiVa BEST』 収録)
■谷川賢作オフィシャルサイト■
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