谷川賢作が率いるDiVaというバンドについて考えるとき、賢作の父である谷川俊太郎の存在に触れることは避けられない。日本一有名、と言っても異論の出ないほどの詩人を父に持つことには、当然ながら様々な面倒がつきまとうはずだ。しかしまた、とてつもなく恵まれた環境であることも間違いない。何しろ作曲家として、その詩人の言葉をいくらでも素材として利用することができるのだ。賢作本人の言葉を借りれば、「谷川俊太郎の詩、それも歌になることを想定して書かれていない詩を歌にした作品」を発表するためのバンドとして結成されたDiVaは、出発点からしてすでにユニークである。問題はその特徴が、彼らの音楽にどのように結びつき、またその音楽が、聴く者に何を与えるのか、という点であろう。
■音楽に憧れる詩■
谷川俊太郎は、以下のように書いたことがある。
音楽は昔から私にとってなくてはならぬものだった。今も私は時に音楽に縋らずには生きていけないと思うことがある。
『モーツァルトを聴く人』あとがき
その長い活動の中でほぼ一貫して、谷川の詩には様々な作曲家や楽器、それに音楽用語が登場する。また「詩を書く」という行為は、しばしば「歌う」と言い換えられてきた。では、詩と音楽の関係とはどのようなものか。
それは西洋においても幾度も論じられてきた問題である。十九世紀には、ロマン派音楽の勃興と共に、「標題音楽」と「絶対音楽」の対立が取り沙汰されるようになる。標題音楽は題名を持ち、ときにはソネットなどが付され、聴き手をある物語世界へと誘導する。一方で、絶対音楽はこれといった指標を持たず、ただ音楽をして音楽を現前せしめるのである。とはいえ、このような二項対立は当然ながら、すぐに限界に突き当たってしまう。例えば超絶技巧の作曲家、ショパンの「ポロネーズ第6番変イ長調、作品53」は、これ以上なく純粋なピアノ曲であるが、いまではショパンの与り知らぬところで付けられた「英雄」という題で知られており、聴き手は現に、そこに様々な物語を見出だしているのである。要するに、もし標題音楽が文学的であると言うならば絶対音楽もまた文学的であるし、絶対音楽が音楽のための音楽であると言うならば標題音楽も然り、ということになる。
はじめから音楽を伴わない詩の場合はどうだろうか。明らかに、詩は音楽的だ。西洋で詩文と言えば、すなわち韻文である。日本の場合を見れば、『万葉集』の頃、おそらく和歌には儀式的・呪術的な側面がまだ色濃く残っていた。「歌」と言うくらいだから、それは確かに謡われるものであった。平安時代に入り、和歌がより「書かれること」を意識するようになっても、歌が披露される場ではしばしば琴や笛が奏された。つまり、かつて文学はより総合的な表現であった。ところが、詩は徐々に音楽や絵画、舞踊などと切り離され、紙の上に閉じ込められてしまった。少なくとも、私たちは詩をそのようなものとして読む悪癖を身につけている。これは、ただ言葉によってのみ組み立てられた詩の宿命でもあるだろう。音楽は自らが音楽であることに満足している。だが詩は自らが詩であることを疑わずにはいられない。
谷川の詩も、しばしば詩としての自分の姿に辟易して、音楽の奔放さと力強さに憧れを抱いているように思える。詩の言葉に「声」を与えることで意味を解放しようとする朗読という行為や、その朗読とクラシック音楽の演奏を交互に繰り広げることで解釈の連鎖を促そうとする試みに谷川が熱意を傾けているのも、そのような憧れの具現化ではないか。その谷川俊太郎の息子が音楽家になったことの背景には、何か、詩人の魔術的な企みがあったのではないかとさえ思えてしまうのである。
■音楽と日本語■
DiVaの楽曲の特徴は何か。まず挙げなければならないのは、歌詞の聞き取りやすさであろう。ここで、日本語による商業音楽全般を指すものとして、あのJ-POPという珍妙な言葉を使うことにするが、J-POPにおいては、この歌詞の聞き取りやすさというのはたしかに特徴なのである。巷に溢れる無数の楽曲の大部分は、信じられないほど似通った、中身のない言葉を、ひとまず歌詞として羅列している。だが、私たちは生れてからずっと日本語に触れているはずなのに、彼らが何を歌っているのか、わからないことがしばしばある。それは取りも直さず、歌手たちが言葉の響きや意味よりも、楽曲の旋律と構成とを強く意識していることを意味するのではないか。歌詞は、ないと困るからある、という程度のものなのではないか。
これは一面では仕方のないことでもある。西洋の旋律と日本語の音とは、残念ながらあまり相性がよろしくない。したがって音楽性を追求しながら日本語をも生かすには相当の努力が必要になるのだが、努力を惜しまない人というのは稀なのだ。J-POPの黎明期には、例えば、はっぴいえんどというバンドが、この問題に正面から取り組んでいた。バンドの活動は短いものだったが、メンバーであった松本隆や大瀧詠一は、その後も昭和の終わりまで作詞家・作曲家としてヒット曲を量産している。彼らの楽曲が愛されるのは、やはり言葉がしっかりと聴き手に届くからであろう。他にも、北原白秋の向こうを張って「シクラメンのかほり」を書いた小椋佳や、母音を自在に操り、日本語を日本語のまま外国語に変えてしまうサザンオールスターズの桑田佳祐などの存在も忘れてはならない。結局、一流のミュージシャンとは言葉をないがしろにしないミュージシャンなのである。その目的は何も、言葉で聴き手を感動させる、というような陳腐なものではない。大切なのは聴き手の意識を音楽と同時に言葉にも惹きつけることである。歌詞の内容は、下卑た笑いを誘うものでも構わない。ただそれが音楽と結びついたときに、新たな意味を獲得する可能性こそが重要なのだ。
DiVaが2009年に世に問うたベスト盤『詩は歌に恋をする –DiVa BEST』は、谷川俊太郎による詩の朗読で幕を開け、同じく朗読によって幕を閉じる。それぞれの詩は、「歌に恋して」、「歌われて」と題されている。ここから、このアルバムを一つの物語として読むことができる。つまり、音楽に憧れを抱いた「言葉」がDiVaの面々のところへやってきて、彼らの手を借りて「歌」になる。そして最後には、自分は「歌われたのだ」という感想を残して、また去ってゆくというわけだ。ここにも、言葉を最大限に生かすための楽曲を作る、というDiVaの姿勢が宣言されている。
言葉が主人公であるこのアルバムは、当然ながら、前向きな歌ばかりを集めたものではない。それぞれの歌の主人公はときに孤独を求めるし、人間の虚しさを嘆くこともある。だが言葉は怯える子供を慰めもするし、小さな冒険心を掻き立てもする。そして音楽に常に寄り添っているかと思うと、どこかで音楽を疑っているような素振りも見せる。言葉が正解を示すための道具ではないように、このアルバムも何らかの主題を聴き手に押しつけるものではなく、聴き手を言葉と音楽のあわいへと招くような、多層的な流れを持っている。正津勉、まど・みちお、いしだえつ子の詞も使われており、決して谷川俊太郎の詩に特化したものというわけではない。言葉と音楽を両立させようと思えば、このような視野の広さも必要になる。
DiVa新譜『うたがうまれる』同梱のブックレット。16ページ構成の小冊子になっている
■歌うことのノスタルジア■
シンプルな温かいピアノと楽しげなベース、ときおり割って入る闊達な笛の音は、古典的とも言える伸びやかな歌声と相まって、実に親しみやすい音の空間を構築している。DiVaの曲調は、どことなく、はちみつぱいやたまといったバンドを思い起こさせる(彼らもまた、詞へのこだわりを強く持った抒情詩人たちである)。あるいはいっそ、「みんなのうた」のようだ、と言ってもいいのかもしれない。
むろんこの比喩は、DiVaの音楽が童謡的である、ということを意味するのではない。ここで取り上げるべきはノスタルジアの感覚である。私自身、物心つく以前から聴いていた「メトロポリタン・ミュージアム」や「まっくら森の歌」、あるいは「北風小僧の寒太郎」といった曲を、いまでもよく覚えている。いや、忘れることができない、と言うべきだろう。これらの曲をふと耳にするとき湧き起こる感覚は、ノスタルジアであると言う他ない。
ノスタルジアとは、単に「懐かしさ」から来る表層的な情動ではない。その語尾からもわかるように、本来は病名であり、十八世紀に生れた言葉である。現代風に言えばホームシックのようなものであるが、ホームシックの前提には、自分がいるべき場所からの隔絶という状況がある。そのような状況は、人々が自分の生れた村で当り前のように生涯を終えていた時代には出現しようがないのだから、その意味では現代病であろう。そして社会が複雑になればなるほど、ノスタルジアは慢性になる。いまや私たちは、物理的な移動とは無縁のところで、故郷と呼ぶべき場所から引き離されている。価値観は日々変化を強いられ、多様化するメディアは言葉を補強するどころか希薄にするばかり、おまけに過去を振り返る時間もない。こうして私たちは、他ならぬ私たち自身との間の、埋め難い距離に気づき、時として心に傷を負うのだ。傷を癒すためには、向き合うしかない。DiVaの場合は、詩が音を伴って駆け抜け、その距離を埋める。
本来、音楽の役割とはそのようなものであったはずだ。言葉に、音楽によって呪術的な衣裳を与え、演奏し、踊る。こうした営みを通じて、人間は力を得てきたのだし、また、言葉について深く考えるようにもなっていった。だからDiVaの音楽とは、今日の音楽のあり方を解体して、その自然な姿を聴き手に示すようなものである、と言えるのかもしれない。つまり音楽の解剖学であって、解剖楽、と呼んでみた所以である。
大野露井
■ DiVa 『かわからきた おさかな』 詩・谷川俊太郎 曲・谷川賢作 ■ (アルバム 『詩は歌に恋をする-DiVa BEST』 収録)
■谷川賢作オフィシャルサイト■
■DiVa取り扱いネットショップ fuku no tane■
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