於・東京国立博物館 会期=2013/04/09~06/02、その後、九州国立博物館(2014/01/15~03/09)を巡回
入館料=1500円(一般) カタログ=2300円
評価=総評・85点 展示方法・80点 カタログ・80点
『国宝 大神社展 Shinto Shrine』という、なにやら茫漠としたタイトルの展覧会である。あまり期待しないで見に行ったのだが、これが面白かった。主催社の『ごあいさつ』には『本展覧会は、伊勢神宮の第六十二回式年遷宮(しきねんせんぐう)を機に、神社本庁をはじめ、日本全国の神社の全面的な協力を得て、神社の宝物や日本の神々に関する文化財をまとまった形でご覧いただくものです』とある。確かに伊勢、熱田神宮や出雲大社、金刀比羅宮(ことひらぐう)といった有名神社の宝物展は、過去何度も開かれている。しかし全国規模で名だたる神社の宝物を集め、それを体系的に展示・紹介した展覧会は今回が初めてかもしれない。
多くの日本人は新年の始まりに神社に初詣に行く。お寺に行くのは主に葬式や法事の時だ。新年には晴れ着を着て、葬式では喪服を着るわけである。つまり神社は『ハレ』=『晴れ、非日常』的な空間であり、お寺は『ケ』=『穢れ、日常』の空間である。また神社は簡素だ。たいていは大きな木々に囲まれた場所に、ポツンと建物がある。中の調度も少なくがらんどうに近い。これに対して寺の薄暗い闇の中には金色に光る仏像や仏具がたくさん置かれ、お香が焚かれている。森林浴的な神社の空気とは逆に、なにやら死を思わせる神秘的な雰囲気である。これは現実の神社とお寺の印象分析に過ぎないが、そういった印象の根っこは意外に深く、日本的精神の源泉に繋がっていると思うのである。
『黒漆平文根古志形鏡台(くろうるしひょうもんねこじがたきょうだい)』 木製漆塗・平文 平安時代 12世紀 高84.5センチ 奈良・春日(かすが)大社蔵
『黒漆平文根古志形鏡台』は、春日大社に伝わる鏡を掛けるための台である。『根古志形』という聞き慣れぬ形状だが、これは根っこごと抜いた木の形を表す。上方のU字型の部分に鏡を掛けるのだが、これはその昔、木の枝に鏡を掛けていた風習の名残だと言われる。『鏡台』が作られたのは平安時代末期の12世紀頃だと推定されているが、奈良朝以前の古代日本では、鏡は神意の表象、あるいは神の依り代として、自然界の神聖な場所に掛けられていたのである。
日本の神社の頂点(本宗という)は言うまでもなく伊勢神宮である。正式名称は『神宮』で伊勢神宮は通称である。神道の最高神官は今上天皇であり、伊勢内宮に入ることができるのも今上天皇のみである。また天皇は苗字を持たないが、それは天皇が日本国の代表(国体)であり、苗字は天皇から臣下である国民に与えられるものだという思想に基づいている。つまり天皇制として確立されることになる日本の古代思想には空白部分がある。固有名詞を持たない以上、神(およびその代理人)は名指しできないのである。政治的議論は別にして、神を巡る古代日本人の思想が日本文化の基層となっているのは確かである。
伊勢神宮では原則として20年ごとに、内外宮等の建物を立て替え神座を遷す式年遷宮が行われる。カタログ解説で東京国立博物館上席研究員の池田宏氏が書いておられるように、『建物や神宝を一新することで、祭神も新たな力を得、更新され、若返る(中略)。そこにはいつまでも瑞々しく、変わらない姿、常若(とこわか)の思想がうかがえる』のである。この式年遷宮によって祭神がお使いになる道具は新調されるわけだが、それまでのお道具は『古神宝』(しんぽう、じんぽう、かんだから)と呼ばれ、各地の神社で大切に守り継がれてきた(古くなり廃棄された神宝の発掘品も多い)。つまり古神宝から、古代日本人の精神風土や思想を読み解くことができるのである。
『男神坐像(だんしんざぞう)』 木造・彩色 平安時代 9世紀 像高97.3センチ 京都・松尾(まつお)大社蔵
『女神坐像(じょしんざぞう)』 木造・彩色 平安時代 9世紀 像高87.6センチ 京都・松尾(まつお)大社蔵
6世紀頃に伝わった仏教は、古代日本にとって最大の外来思想だった。天皇を始めとする王侯貴族たちが仏教に深く帰依し、それによって日本古来の神(神道)の思想的解釈も変わっていった。平安時代には神は衆生を救うために仏が姿を変えて現れたもので(垂迹説=迹[あと]を垂れるという意味)、神の本体(本地説)は仏であるという『本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)』がほぼ確立された。この思想により多くの神社で仏が祀られる神仏習合が進み、それは明治初期の神仏分離(廃仏毀釈)の時代まで続いたのである。
京都の松尾大社に伝わる『男神坐像』、『女神坐像』は今のところ最古の神像だと考えられている。古文書などによれば8世紀には神像が作られ始めていたが、それらは残っていないようだ。日本古来の神は不可知(不可視)だとされてきたので、神像造営は仏教からの影響で始まったと言える。数多くの神像が遺っているが、各地の神社の御神体は必ずしも神像ではない。鏡などもあるが、なんの変哲もない石ころだったりする場合もある。図像学的に見ていけば、神・仏像の捉え方は神道と仏教で大きく異なる。
仏教はブッダ(釈尊)が始めた宗教だが、彼は現世の苦悩を超越して悟りを開いた最初の人である。生きたまま悟りの境地に達したという意味では生き神様と捉えることができるが、釈尊自身の定義では彼はあくまで修行者である。つまり現世的苦悩の超脱を主題に掲げる仏教は、生臭く闘争的な面を持っている。現世の様々な欲望は修行によって超克され、悟りへと至らなければならない。そのため仏教は図像を伴う物語と相性が良い(因果応報絵巻など)。仏教の本尊である阿弥陀如来は悟りを開いた静謐なお姿だが、その周りを忿怒相の諸仏が取り巻いているのは、仏教にとって悟りは最終到達地点でしかなく、現世的苦悩との戦いがその宗教的本質であることを示している。
これに対して神道には現世的苦悩や悟りといった概念はない。仏教諸派は現世社会の改革を掲げ、奈良時代から江戸初期に至るまで僧兵を組織して権力者と戦い続けたが、神道にそういった要素は一切ないのである。神道における神は最初から現世を超脱している。古代的教義では神と接触できるのは今上天皇ただ一人ということになるが、原則として人間は神と対話することはできず、ただひたすらに祈りを捧げることによって、なんらかの形で神意が下されるのを待つしかないのである。
『黒漆平文飾剣(くろうるしひょうもんのかざりたち)』 一口 平安時代 12世紀 総長108.6センチ 奈良・春日(かすが)大社蔵
『桐蒔絵手箱(きりまきえてばこ)および内容品(ないようひん)』 一具 (手箱)木製漆塗・蒔絵 南北朝時代 明徳元年(1390年)奉納 (手箱)縦26.8×横35.1×高23.3センチ 和歌山・熊野速玉(くまのはやたま)大社蔵
神社に残る古神宝は神がお使いになる調度品で、衣類から武具に至るまで多岐に渡る。太刀が好んで奉納されたのは、神意を得た者が現世の覇権を握ることの表象だろう。天皇家の三種の神器に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、別名草薙[くさなぎ]の剣)が含まれていることは言うまでもない。熊野速玉大社蔵の『桐蒔絵手箱』には化粧道具が納められているが、これは女神用のものである。『古事記』、『日本書紀』ともに、イザナギノミコトとイザナミノミコトによって国が生み出されたと記述しているのは言うまでもない。しかし神道では男女神の区分はそれほど明確ではない。
『古事記』巻頭には高天原(たかまのはら)に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)の三神が降臨して、神としての姿を現すと同時に『身を隠したまひき』と記述されている。『日本書紀』巻頭では『天地(あめつち)未だ剖(わかれ)』ざる混沌の世に国常立尊(くにのとこたちのみこと)が降臨するが、この神が国づくりを完遂するわけではない。記紀では神々は次々に姿を変え、名前を変えて顕現・降臨する。神々の諍いもあるがそれには理由があり、おのおのの役割を終えると『身を隠したま』うのである。
簡単に言えば記紀の神々は、神と呼ばれる不可知の存在の現世における顕現である。本来は姿を持たず、名指しすることもできない至高の神が、自己の存在をこの世に顕現するときに神の名が生まれるのである。その意味で記紀の神々は、茫漠としているが神と呼ばれる唯一総体の仮象の分裂的顕現だと言うことができる。仮象であるにせよ神道の最高神は天照大神であり、道教などの流入によって女性が陰・穢とされる以前の日本では、男女間の尊卑概念はなかったと思われる。また現象的には様々な名と姿を持つが、本来的には唯一であると措定される神概念が、天皇家の万世一系という思想を生んでいると言える。
『富士浅間曼荼羅(ふじせんげんまんだら)』 一幅 紙本着色 江戸時代 17世紀 縦126センチ×横103.3センチ 静岡・富士山本宮浅間(ふじさんほんぐうせんげん)大社蔵
神の姿をかたどった神像は、平安貴族の姿をなぞったり、仏像の形を借りたりしてその様式が一定しない。しかし絵画になると様子が違ってくる。神道には曼荼羅と呼ばれる一連の軸(聖画)がある。仏教用語を借りてはいるが、その表現内容は神道独自のものである。富士山本宮浅間大社蔵の『富士浅間曼荼羅』は、だいぶ時代が下って江戸時代初期の作だが、神道系の図像の特徴をよく表している。神々の姿は描かれず、富士山と浅間大社そのものが聖像であり、信仰の対象なのである。同様の図像に春日曼荼羅などがある。
有史以前の古代では、神は山や木や岩に宿ると考えられていた。自然界そのものが聖域であり、今回の展覧会でも、島全体が神座と考えられていた対馬の沖ノ島から発掘された神宝などが展示されている。神道の曼荼羅はそのような古代的心性を伝えている。神は特定の山川草木に宿り、かつ不定形かつ不可視の唯一神として日本中に偏在するのである。和歌における枕詞や歌垣など、特定の場所の聖化も、本質的にはそのような日本的心性から生み出されたと考えられる。
19世紀末にエドワード・B・タイラーによって〝アニミズム〟の概念が提出されてから、日本を含む東アジア圏の宗教は、自然界に神を見る(感じる)原始的宗教であると規定されてきた。タイラーの理論は当時の進化論の影響を受けており、彼は宗教は原始的アニミズムから多神教の時期を経て、キリスト教的な一神教となって完成すると考えたのである。
タイラーの理論に添えば、中国や日本はアニミズム型で、人格神の形を取るが多神教のヒンドゥー教は多神教、ユダヤ・イスラム・キリスト教は一神教ということになる。全て広いユーラシア大陸で生まれた宗教だが、大陸を西から東に辿るにつれ、一神教から多神教、そして人格神の形を取らないので一神教・多神教の人々からは無神と映りかねない茫漠とした宗教になっている。ただタイラーの進化論的宗教理論は一つの仮説である。インドから極東に至る多神・アニミズムエリアは、どんなに年月が経っても一神教には移行しないからである。
アニミズムとひとくくりにして論じるのは危険なのである。正確には原始神道があり、原始仏教があり、その理論的、図像的完成に向けた時期がある。そのいわゆる〝進化〟の過程はヨーロッパ的な理論では十全に説明しにくい。日本の精神風土を形作った両輪は神道と仏教だが、このハレとケと措定できる心性は複雑に混交し合いながら独特の思想と文化を作り上げてきた。中心なく混交し合う宗教的・思想的関係総体そのものが日本的精神風土を作り上げているのである。ヨーロッパ人による非ヨーロッパ的理論であるポスト・モダニズム思想に添って言えば、関係性が交錯する箇所に出現する無数のリゾーム(突起)が総体として日本的精神風土を形作っている。中心はなく、強いて言えば、無数のリゾームが指し示す方角が一つの求心点を示唆している。
『僧形八幡神影向図(そうぎょうはちまんしんようごうず)』 一幅 紙本着色 鎌倉時代 13世紀 縦92.7センチ×横50.9センチ 京都・仁和寺(にんなじ)蔵
京都の仁和寺蔵の『僧形八幡神影向図』は神仏習合図像の傑作である。右下に笏を持った二人の高位の貴族が跪座していて、左側に彼らに背を向けた僧侶が立っている。この僧侶は八幡神の影向(ようごう=姿を現すこと)だと考えられる。八幡神が仏僧の姿を取って現れたのである。ただこの軸にはもう一つ聖像が描かれている。画面中央に描かれた、中空に浮かぶ金色の人型である。この人型は八万神の〝御正体〟だと思われる。神には本来、決まった形はないのである。
このように複雑で洗練された図像が偶然制作されることはない。そこには複数の知の体系が複雑に絡まり合っている。ただこれは単純な図像でもある。神は唯一かつ不可知であるということである。キリスト、ユダヤ、イスラーム教世界においても、多くの神秘思想家が、人格神として人々の前に顕現する以前の神の正体を不可知だと認識してきた。あらゆる宗教における神は、本来的に不可知である神が、人間に対して神であることを示そうと自己顕示欲求を持った時に現れる、仮象だと言うこともできるのである。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■