詩はかつて歌の言葉だった。歌は詩だった。歌詠みとは短詩人のことだ。一方で、音はそれだけで喜びを与えるに足る。言葉はいらない、という感動を与えるものほど優れた絵画であり、音楽だ。このときの「いらない言葉」とは、とりわけ「説明」する言葉のことを指す。
「説明」する言葉を排さなくてはならないのは、本当は「文学」でも同じなのだ。説明的な小説は興醒めだし、詩が説明的なのは論外だ。批評だって本質を突き、説得力のある論旨の展開は、どうにも動かしがたい「物体」めいている。「説明」と言うようなヤワなものではない。
詩人は絵を愛し、歌を好む。だが歌から活字に起こされた詞は、あまり誉めない。それは音楽に「使用」されたものであり、「説明」同様にヤワなものに聞こえる。動かしがたい、それ自体かけがえのない詩より格下なのだ、とどこかで思っている。型どおりの言葉、さもなく幼稚で陳腐な歌詞も多くあり、それらはもちろん活字として読むに堪えないということは否定しない。
しかし結局のところ、我々の抱く感情とは9割方、「さもなく幼稚で陳腐」なものなのではないか。凡百の作文に近いような「文学」もまた、それを描いてきた。そこから極端=エクストリームに突出することができるものはごく一握りである。極端な傑作は陳腐な思考を排しているのではなく、むしろ自身の感覚と思想こそが人間一般の普遍的なものだという確信を持っている。それが正しかろうと間違っていようと、確信がある、ということにのみ価値がある。
詩を詩たらしめ、文学を文学たらしめているのは、人間の上等さや知性でなく、この確信の持ちよう、さらにプロならば自ら確信を作り出す「心的な技術」である。
芸術において、その確信はジャンルを問わずに必要なもので、絵画なら色に表れたり、音楽ならコードという「言葉」に表れたりする。当然のことながら、テキストで表現されていなくてはならない、ということはない。
陳腐ですらない、つまらない言葉がいったん、素晴らしい声にのせられたときの「力」は何だろう。それはときに文学を無力に見せてしまうが、インストルメントの音楽もまた色あせて見せてしまうぐらいだ。我々人間はやはり人の声というものに、かぎりない魅力を感じるようにできているらしい。素晴らしい声とは生まれつきの美声というばかりでなく、迷いのない声だ。その声に説得されることは、人の喜びである。どんな言葉であれ。
どんな言葉であれ、とは言った。だがその声の持ち主もまた、神でも天使でもなく人間であり、人間は正直なものだ。詞も含めて音楽であり、自ら信じられない音楽を、迷いない声で表現するのは困難である。書家が自ら選んだ、あるいは自身の言葉を書くのでなければ、よい書にならないのと同じだ。技術を持つ人間であっても、人間である以上は何も考えずにただ声を出したり、ただ筆を動かしたりすることはできない。
歌い手たちはだから、いつも言葉を探している。私はそれを知っている。歌詞を書いた経験は一度だけだが、学生たちを相手に詩や詞を論じるとき、もっとも真剣なのは頭にキツネやタヌキをのせたような男の子たちだ。本なんて読んだことない、と言う彼らの読解はしかし、教えれば誰よりも正確で余念も雑念もない。
彼らが言葉に出会えれば、と思う。詩も詞もまた、素晴らしく確信をもった、願わくば若い声に出会うことを望んでいるはずだ。
小原眞紀子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■